「弥助でもいい」ってどういうニュアンス? ~周回遅れの話をしよう~
※ 注意 ※
このnoteは弥助の歴史的事実やUBIsoft発売予定ゲーム『アサシンクリード シャドウズ』を含めた創作物の内容に関する是非、正誤について論ずるものではありません。あくまでも個人的な感想を述べたものとなります。
要は「今はもう論点・争点じゃない扱いになってしまった『アサクリ主人公に弥助を起用したことについてどう思うか」というのを、ネットの反応を見た程度しか知らん人がうだうだと話すよ、ということ。
こんな炎上してる話に今更いっちょ噛みで入ってくるのは自分でもどうかと思う。迂闊なこと言ったら延焼しますからね。上の注意書きは見ての通りそういうのに対する予防線です。あくまでお気持ちベースで情報の誤りがある可能性もあるので、そういうのを見つけたらできればソース付きでそっと優しく教えてほしい。訂正もしやすくなるので。優しく…優しくしてくれ……。
で、このnoteの焦点ですが。
アサシンクリードシャドウズの炎上については前略。で、最近ネット上で
「アサクリの主人公が弥助かどうかはどうでもいい」「弥助はもう争点じゃない」という話が出始めてるとかナントカ。
それについて話す前に、前提として。
話題が広範囲に拡散されてある物事について考える人が増えれば、その分だけ考え方、論点、焦点も増えます。
つまり「(上記のことを言うような)そういう人もいる」だとか「他により追求することが出てきた」というだけの話であって、侍弥助主人公についての違和感や疑問というのは別に無くなったわけではないのでは?と思っています。私自身も「何故弥助なのか」は引っかかったままですし。
この問題を解決すべき、という論ではなく「そもそも何故弥助がアサクリの主人公になったことで議論を呼んでしまったか、あるいは疑念、それ未満のもやもやを抱く人が出てきてしまったか」を個人的な観点で見ていきます。
なおいっちょ噛みと最初に言った通り、私はアサクリをほとんどプレイしていません。ずっと前にたしかイタリアが舞台のアサクリ(アサクリ2?)をプレイした覚えはあるのですが、自分で買ったのではなく友達の家で交代でプレイしたなーという感じなので、シナリオについてはガチで忘れてます。暗殺ゲーとしてわちゃわちゃ遊んでた思い出。ですので、内容について聞かれるとバージョンの古いchatGPTの返答みたいになります。エアプクソオタクですね。
■ ニュアンスのはなし
まず、このnoteにもなってる「弥助でもいい」っていうニュアンスについて。これ、言ってる人ごとにものすごく微妙に違うニュアンスでそれぞれ言ってるんじゃないかなーという印象。で、私個人の「弥助でもいい」というのは、
「創作の自由があるから、弥助でもいい」
という感じですかね。もっと言うと、
「弥助を主人公にすることそのものについて文句を言うのは、創作の自由を認める上で致しかねる」という上で、
「ただし、今までのアサクリのスタンスから弥助を主人公にするのは疑問を持たれても当然」
という気持ちです。
そもそも、創作の自由を含めた自由に対しては、常に責任が伴いますよね?
で、この責任ってのが何なのか。これも捉え方はいろいろだと思いますが、私としては「利害調整」なんですよ。
「あなたがそれをやるのは勝手だが、それに対する反応をコントロールする必要があるのはあなた自身だ」
別にゲームで好き勝手な表現してもいいんですよ。何なら差別的な表現のあるゲームだって作ってもいいでしょう。ただ、その結果ゲームや制作者に対して何を言われるか、また社会的な影響が出た場合どうするかっていう責任は、反応してる側じゃなくて何かを作った側が考えなきゃならない。
別にいいんですよ、何か作って反発されたことを反発した側に問題があるように言っても。ただ、それであなたの状況は変わりませんよ、という話。
ちょっと話が分かりにくくなりましたね。
つまりは「弥助をアサクリの主人公にしたことについての理屈は制作陣の中にあるのだろうけれど、それを受け止める側がどう思うか」という話です。そして、これについてレイシズムだ、差別だと言っても話は収まるわけではなかった、というのがこれまでの流れだったのでしょう。
ちなみに上記の話はあくまでゲーム内のことについてのみに論点を持ち、ゲーム外のこと(ゲーム制作陣やCEOの発言、あるいは社会的歴史認識の問題)を抜きにした上での話です。ゲーム外のことが大きくなったからこそ弥助は論点から外れていったでは、という気がしますね。
実際、私を含めて『弥助のフィクション』はフィクションとして受容するという人は一定数いるようです。
(まあこういった人たちも、もはやフィクション弥助の推し方そのものに疑問を持ち始めてしまって状況になってきていますが……)
しかし炎上の最初期、そもそも「弥助が何故主人公なのか」と疑問を持った人々もいたわけです。何故そんな疑問を持たれてしまったのか?フィクションだからいいじゃない、とは思われなかった理由とは?
先に結論を述べましょう。
弥助(アフリカ人侍)でもいい、というのなら。
■ 何故日本人侍では駄目だったのか
誰かが選ばれたということは、誰かが選ばれなかったということ。
アサクリは基本的に、歴代シリーズタイトルでオリジナルの現地人が選ばれていたという経緯があります。私はプレイしていないので、これが事実なのかというのは伝聞だよりですが。
ともあれこれを前提にして考えたとき、弥助はどういう立ち場なのかということになります。まず、
『主人公=現地のオリジナルキャラクター』
という構図。
弥助の話をする前に、もう一人の主人公、奈緒江について触れましょう。
オリジナルの現地人という条件を奈緒江はクリアしています。奈緒江は女性であり、実在の人物・藤林長門守の子という設定だそうです。
「奈緒江がいるので日本人主人公がいないのは間違い」
という指摘を時折見かけます。確かに、日本人主人公がいなかったという主張は間違いでしょう。しかし、それでも弥助のポジションに日本人を据えるべきだったという声がある背景には『アジア人男性が歴代主人公に存在しない』という問題がある、らしい。
ただ、何にせよ問題はもっと単純化できます。
奈緒江がいようがいまいが、弥助は異例の存在なのです。
弥助は現地(日本にいた)キャラクターではあるが出自的には日本とは関係が無い。また、史実に名が確認されているのでオリジナルキャラクターでもない。
つまり、今までのスタンスを覆して起用するだけの理由が弥助にはあった、ということになります。
じゃあその理由はなんですか?という話になるわけです。
まあ、だいたいの批判していた人はまず真っ先にポリコレを思い浮かべたことでしょうが、それはまあ一旦置いておくとして。
一度、クリエイティブな側面から弥助を選択した理由を考えてみましょう。
まずひとつに、ゲーム性の観点。奈緒江が忍者であり従来のアサシン・アクションを担当するのでもう一人にはパワータイプの動きを担当してもらいたい。ということで、力が強い侍を起用したという流れ。
まあ、これだけの理由なら完全に無理筋ですよね。
世は戦国乱世、武勇に名高い武将なんていくらでもいたでしょう。そういう歴戦の猛者がいたけど、主人公にはなれなかった。つまり他に、もっと重大な理由があるはずです。
では他の理由とは?
主人公に能力以外で求められるもの。それはストーリー、バックボーンです。わざわざこれまでのスタンスを捨てて採用した弥助。パワータイプだからというだけでは絶対に無い。
(まあインタビュー記事だとか、最近出された謝罪文なんかである程度言及はされていますが……まあそれは一度考慮外としておきましょう。あくまでもゲームという作品そのものから読み取ります)
弥助、というキャラクターにあって他にないもの。
それが「アフリカ人である」というものです。
西洋との接点があるという人物は日本にも存在します。また、歴史に名を残した渡来人もいます。彼らではなく弥助が選ばれたのはただ一点、アフリカ人であるという他に無い特徴があるからとしか考えようがありません。そしてゲーム的に考えていくと、アフリカはそれまでのアサクリシリーズでも舞台になった、何なら起源ですらあるとシリーズ作品の一つ『オリジンズ』でいわれているそうじゃあないですか。
まあオリジンズの舞台はエジプトで、弥助はモザンビーク出身とか言われていたりしますが、アサクリシャドウズの公式HPがアフリカ人侍っつってんだからまあ大雑把にアフリカでいいでしょう。(そもそもアフリカだって多民族、多言語、多文化の国家群と違うんか?そこを全て一纏めにした『アフリカ人』としてキャラクター紹介に乗せるのはいいんですかね)それでまあ、つまり過去作、しかも起源と銘打った作品の舞台となった地にルーツを持つキャラクター、それが弥助なわけです。しかも弥助はイエズス会というカトリック系修道会に連れら日本に来たのです。
一方、シリーズの敵方となっているテンプル騎士団も元を正せばカトリック系騎士修道会です。
カトリック系の団体、そしてアフリカ。
これら二つの要素を併せ持つ弥助はシャドウズ主人公に適役だったんだよ!
\ な、なんだってー!? /
……と、納得されなかったからこそ、ここまで来てしまったのでしょう。
そもそもそんな背景のちら見せすら公式はしていないような気がするのですが。今までのシリーズの設定にも関わりますとか言ってれば少なくとも考察勢はそういう方向に流れてくれたのでは?まあ、向こうの広報を一から十まで読んでいるわけではないので見落としがあるのかもしれません。
ところで。
そもそもここまで制作陣の側になって考えていましたが。
そもそも論としてこんなもんは理由にならないんですよ。
じゃあなんで長々といらんことくっちゃべったんですか!?という話ですが、ここまで考えて、こう考えた人はいませんか?
「弥助じゃなくてもよくね?」
上で述べたような『アフリカ(というかエジプト)やカトリック(テンプル騎士団)とつながりがありそうな人を主人公にする』という必要があったとして。
それを何故オリジナルキャラでやらなかったのか?
それこそオリジナルキャラならどんな突飛な設定でも乗せられるんですよ。日本人キャラクターにこのめちゃくちゃな設定を全部乗っけてもよかった。
ちなみに、そんな適任なやつおらへんやろ……と調べてたら、遣欧使節団でエジプトに行った(正確にはエジプトは経由地)池田長発の家系をたどったりなんやかんやしたら織田信長に繋がるみたいです(要出典)
この話ウィキペディアで調べたんですが、まあもうウィキペディアの情報なんて言われたら信憑性がうすーくなりますね。そもそも長発の血筋は傍系だとかなんだとかそういう話もあるので、織田とのつながりは薄いんですが。まあ、そこらへんのアレをアレして、池田氏の歴史に残ってない誰かしらが実はエジプトのアサシンとつながりがあって、それが後に長発をエジプトに差し向けさせた!長発は実はアサシンの継承者だったのだ!みたいなこともできたかもしれない。知らんけど。
池田氏の話はええねん。
要は、どんな設定でも乗っけられるオリジナルキャラクターを捨てて弥助を起用する理由はなーんも無いじゃないか?という話ですよ。無駄に考えなくても直感的に、そう思っていた人も多かったことでしょう(要出典)
作劇的に弥助が主人公でなくてはならない理由というのを考えてみたんですが、ちょっとよく分からないですね。弥助であってはならない理由はありませんが、弥助でなくてはならない理由も無いでしょう。
■ 椅子取りゲームから蹴落とされた日本男児
前章で色々と弥助でなくてはならない理由、つまり日本人男性が選ばれなかった理由について考えてきました。で、分からないという結論が得られたわけです。
なんか知らんが、シャドウズの制作陣は弥助に魅了され、これまでの慣例を崩して非現地人の実在人物を主人公にした。
これが事実です。そこにはもう理屈は無いと言っていいでしょう。彼らは弥助に心を奪われたとしか言いようがない。
まあ、創作の動機なんてものはそれでいいとは思いますよ。何かしらの異常な執着、欲望が創作に繋がるのはままあることです。
ただ、制作陣の理論無き理屈を、そのままの熱意で顧客は受け取るわけではありません。
いわゆる、たまにネットで見る「顧客が本当に必要としていたもの」の戯画ですよね。顧客はツリーに吊られたタイヤのブランコを求めていた。だが、これを理解できなかったプロジェクトチームは全く違うものを想像し、最後には木を切り倒してしまったという流れ。
「顧客が本当に必要としていたもの」で検索すると画像が出てくるのですが、この画像は顧客の伝え方がそもそも正確ではないというところから始まっています。顧客が理想像を不適切に伝達してしまうというスタートラインの間違いですが、アサクリシャドウズにそういうのがあったと見るのは少々難しいと思います。
炎上の最初期、これはファンの間、しかも海外ファンの間で起こったという話をよく聞きます。ファンは日本人のサムライ、あるいはニンジャを求めていました(要出典)
日本を舞台にしたアサシンクリード。これを求められていたことは、制作陣サイドも承知していたことでしょう。また、Xの謝罪ポストでも日本を舞台にすることを長年望んでいたと述べています。
これはあくまで私の考え方ですが。
人は何かの舞台を求めるとき、その舞台の物事を、やや誇張してもいいぐらいに求めているのだと思います。例えば18世紀末のフランスを舞台にしたなら、革命で荒れた世情や、多少ゴア表現があろうともギロチン台を求めるでしょう。歴史的な建築物の美しい街並みの中は、しかし血みどろの戦いや飢えに荒廃しているのです――といった物語を求めるでしょう。また、これがアメリカ西海岸なら、カウボーイや保安官がギャングと打ち合い、馬が駆け抜けタンブルウィードがコロコロ転がっているところを見たいでしょう。
ここで問題なのは、誇張というものは、実際にあるものの拡張だということです。もっと言えば、顧客が求める誇張表現とは、何かステレオタイプ的な非革新的なものではないでしょうか。
ネットミームでいう「こういうのでいいんだよ」です。ゴーストオブツシマがわりとトンデモ日本寄りの描写なのに受け入れられ、しかも現在再評価されているのは「黒澤明の世界観を再現したい」という、いわば「侍の誇張表現」を元に拡張された世界だからなのではないかと思うのです。これが「誉」という言葉に表されています。誉という、当時の価値観の誇張、拡大の表現が面白さの一つに繋がったように思えます。
逆に、イメージと違うものをくっつけられると顧客は困惑するわけです。
そして、日本舞台のアサクリを求めていた人々にとって、黒人の侍はイメージに無かったものなのです。史実にいた、とか関係なく求められていたものではなかった。
恐らく、日本のアサクリと聞いて求められていたのはジャパニーズニンジャです。たぶん黒装束着て手裏剣投げてるアレ。
が、操作キャラにいるのは女忍者とアフリカン侍。
それまでのスタンスを変える!当たり前を見直す!みたいな革新的な行動に出てもいいんですけど、それが常に良い効果を生むわけじゃないんですよ。
創作の観点において、意外性は良い効果と悪い効果を生みます。
意外性が良く作用されれば、人はその物語をもっと知りたいと思って物語に誘引されます。他方、悪く作用すればその物語は「突拍子もない」だとか「ご都合主義」といったふうに見られます。あると思ってもないものが、作者の都合で登場するのですから。
長ぁ~~~~く話してきましたが。
「黒人主人公は嫌だ」とか「弥助が主人公になるのはおかしい」ではなく。
「これまでのアサシンクリードのスタンスを捨て、日本人男性がいると予想された席に別の民族がいる」ことが問題と見られてしまった。この主人公が黒人や白人、あるいはインド人やモンゴル人、またアメリカ先住民族やフィリピン人でも、私としては違和感を覚えたと思います。
ご都合主義って上で書きましたが、まさにこれだと感じています。制作者の都合を満たすために現れたキャラクター。弥助は可哀想にもそういうポジションに立ってしまったように思えます。
蛇足。
これまで基本、インタビュー記事にある制作陣の言葉についてはnoteに組み込んでいませんでしたが……ここでちょっとそれを取り入れて考えると。
どうにも、UBIサイドには「弥助というアフリカン侍を排除したいと思うやつがいる」と、考えている人がいるように思えます。
現象だけで見ればこれは事実です。弥助じゃない方がいいと内心思う人、言っている人、いるでしょう。
ただ、これを差別感情と捉えられるのはいかがなものか。
そもそも言わせていただくと、
「日本人男性の侍を排除して弥助が主人公になった」
と感じてしまうのです。今まではそうだったのだから、それを期待するのは自然なことでしょう。アサクリに対してほぼ思い入れの無い私ですが、だからこそ、客観的に見て弥助の起用にはどうしても違和感が出てしまいます。
ただ、そういうことを言ってもしょうがない。なにせ創作の自由があります。弥助を主人公にすることそのものについて、制限することはできません。シャドウズの制作陣がどうしてもやりたい?なら好きにしろ。あなたがたは顧客へのマーケティングに則るのではなく、その表現への熱意でそうするんでしょうから。
とはいえ、ここまで表現への熱意、あるいは執着といった言葉を使いましたが、これはUBIsoftがクリエイティブなゲーム制作会社であるという前提に立った私の考えでしかありません。そして、私の考えと私の感情はまた別です。彼らの言葉を抜きにして、彼らが作ったもの、プロモーションとして見せたものだけを見てもとても情熱があったとは感じられないのです。
グラフィックの制作にはある程度の時間と人的労力が割かれていたのは見て取れますが、散々に指摘された表現の杜撰さはおよそ専門家を監修に入れて作られたとは思いません。想像、あるいはネットの写真だけ切り貼りしてAIで補正をかけたものをそのままゲームグラフィックに落とし込んだようなPVは今見ても呆れしか感じられませんし、呆れではなく怒りや落胆を覚える人もいたでしょう。
あと、一番「あ、こいつら真剣にこのゲーム作ってないな」と思ったのが、Japan Expoに関連する公式(アサシンクリードFR)Xのポストでした。
三代鬼徹(ONE PIECEのゾロの刀)無断使用疑惑、そして配置された小物もネットサイトで買った(自社製ではない)疑惑。自分で真剣に作って失敗するのは予算や知識の欠落でまだ済む(許せるかどうかは別として)ものの、作りすらせず既製品でごまかすというのはクリエイティブとは言えない。当然、創作の熱意なんてものも感じられないです。
(一応弥助の兜はありましたが……無駄にスペースを埋めるために既製品の日本人形や銅鑼、三代鬼徹を置くのは本当にどうかしてる)
Japan Expoそのもののレベルが気になってXのポストをちょっと調べてみましたが、他の企業ブースはしっかり自分の商品を所狭しと並べていました。飾りなどに既製品を使ったりしているところはありそうですが、そもそも商品やPVを流すパネル、アートなどが書かれた壁などを見ていると、アサクリブース自体のレベルがやはり低いようにしか見えない。
なんだかUBIサイドは差別問題と絡めてきている気がしますが、結局この話はそういうことなんですよ。
UBIはマーケティングよりも制作陣の創作意欲を優先した。
弥助をどうしても使いたかった。
けど、その創作意欲も後から見ると欠けているようにしか見えない。
顧客のニーズや期待からも外れ、かといって商品価値を高めるために商品自体の完成度を高めることや商品の広報にも失敗している。
UBIはシャドウズの商品価値を高めることをひとつもしなかった。……と、見えてしまった。インタビューなどでゲームの魅力をたくさん発信したにもかかわらず、良さが伝わらず、悪さだけが広まってしまった。そして、こういった自体の責任はUBI自体にあります。だって、それが商売でしょう?
たまにネットの声で「これはゲームだ、弥助の存在や史実性は問題にはしない」という人がいますが、商品としてゲームを売るのであれば真剣に売ることを考えるはずです。商品としての完成度は売るまで分からないとしても、マーケティングにおいてはどう考えても大失敗している。
PV、という最初に人々が商品であるゲームを目にする場で、商品そのものの雑なところが出てしまった。後から直すからいいじゃないかとか、これはアクションゲームだから見た目は適当でもいいだろうとか、そういう言葉はゲーム制作を舐めているのでは?
娯楽商品だ、と言いたいなら、商品を商品らしく仕立ててはいかがか。
「ただのゲーム」を売りたいなら、真面目に作って売れ。
マーケティングの失敗を顧客の問題にすり替えるな。
あ、念の為、改めて最後に言っておきますが。
ここまで長々と述べてきたのは「アサシンクリードシリーズの最新作、アサシンクリードシャドウズにおいて弥助が主人公になることについて」の、その一点の周回遅れも周回遅れ、最初の周の話題だけです。
そしてその結論は、UBIはよっっっっぽど弥助を主人公にしたい理由があったんだろうな(顧客には知ったことじゃないが)……です。
この「弥助主人公はどう受け取られるか問題」が、恐らく起点だったのではないか、と外から問題(というか炎上)を見ていて思います。
人は何故、どうして、の理由を求めたがります。そもそも主人公の属性(タイプ)について『何故』という問いはつきまといます。
何故、この人物が主人公になっているのか。
どの主人公にも大なり小なり向けられるこの問いを、弥助という存在は加速させてしまった。そして顧客が独自にその意図を読もうとしたところ、インタビュー(現在削除されたものを含む)や公式動画、公表されたイラストから粗と雑味が山のように出てしまった。当然のように弥助の起用とこれらは結びついて考えられてしまい、舞台となる日本軽視、蔑視、差別といった憶測を呼び、今日に至るまでの大炎上に繋がってしまったのでしょう。
現状の炎上にについて、私としては詳しくは言及しません。複数出た問題、それらと複雑に絡む制作陣や関係者、あるいは本来関係ないはずの人たちの存在。あまりに混迷を極めたため、それらを解きほぐしつつあれこれと自分の気持ちを語ることもはばかられます。いや、はばかられるっていうか、シンプルにしんどいしめんどいし見てるだけで疲れるし(本音)
まだ発売まで4ヶ月程度あり、ゲーム自体の問題は今のところ出尽くした感じです(場外でえらいことになってはいますが)
しかし、再び発売に向けて制作陣はプロモーションをするはずです。しなければ売る気が無いと見られかねませんし、まあPVのひとつぐらいは出すでしょう。そのときに何が起きるのか……あんまり考えたくないですね。
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