鍛錬の輪

元気がないとき、迷っているとき、意識的に一人になるよう努めてきたタイプのわたしです。最近それがなぜなのかわかりました。人と自分との距離のとり方が下手だったんだなぁ。

体調を崩して以来、こっち!と決めていた将来像がブレまくっている昨今。これでいいんだろうか?と、おっかなびっくり足を出す毎日に、こころも身体も疲れきっていました。しかし、それらのストレスが跡形もなくぶっ飛んでしまいました。なんの努力もなく。

この週末、それぞれ別の界隈で全力を出している方々と集まる機会が金・土・日と続いたんです。金曜日はほぼ日の塾の懇親会。土曜日はnp広告学校の大同窓会、そして今日は古い友人の出演する「息が苦しくなるほどに跳ぶ」というお芝居を。本当にスペシャルな週末だった。みんなみんな、眼光をどこまでもまっすぐ飛ばしている全力な人たち。その熱気は、隣にいるこちらまでのぼるくらいに熱い。良くしよう、ここからもっと前に進もう!というパワーに圧倒されて、血行不良のこちらまで元来の熱意を取り戻しました。

以前の自分からは信じられない変化です。おそらく以前は、思考の容量が小さすぎたため、少しでも他人の要素を入れるだけですぐにキャパオーバーになってしまっていたんですね。誰かのがんばりと自分のがんばりを切り離すことは、単なる自己防衛だったんだと今ではわかります。「自分の答えを持っていないひとは、何を望んでも無駄」と高を括っていた頃は、ただ’自信が持てなかったから、他人の答えを見せられることが恐ろしかったんです。干渉されやすく、すぐに色移りしやすいモロ出しの状態。それを歳月をかけて鍛錬することできっちり固まってきたから、誰かの中の答えも直視できるし、感じられるようになった。とても抽象的な話ですが。

ここから飛び出そうと足掻く過程は、あらゆる世界の誰もが共有できるエモーショナルなものです。そこに細かい状況や理屈は必要なくて、まとう空気と屈託のない表情をもってすれば分かり合えてしまう。 オリンピック選手を応援しながら抱く気持ちに似ています。

スクールカースト1軍のみなさまの唱える「みんながいるから強くなれる!」なんていうのは嘘だと思っていましたが、思春期時代からそれを実感できるってすごい。自意識の確立早すぎじゃないですか?こちとら数年社会人やって、ようやっとわかってきたレベルです。ひよっこ人間、まだまだ先は長い。

また明日。

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