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自我が芽生えたら日当たりのいい場所で水をやる

数日後にひかえた企画会議のためのネタが思い浮かばない。もうここ数日ずっと悩んでいる。どういうのがウケるのかなあ。本屋にいったりネットで調べたりぼけーっと空を眺めたりお菓子を食べたり。思い浮かばない。逃げたい。

小さいころ、音楽番組で歌手が歌っている姿を見ると必ず父親に「このひとは上手?」と聞くこどもだった。お笑い人間が漫才をしていると父親が笑っている姿を見て「あ、このひとたちは面白いのか」と思うこどもだった。父親が面白いと言った本は面白いし、つまらないと言った本はつまらない。高校生になるくらいまで、私の自我は息をしていなかった。

「ひとに優しくされるのが苦手だ」という話を友人にしたことがある。優しくされたり想いを寄せられると気分が悪くなってしまうのが、本当に悩みであった。話しているうちにそれは「その人の優しさに応えられないからだ」という理由であることがわかった。そして友人は言った。「それは責任感の欠如だ」と。「あなたは相手の人生を背負う責任から逃れたいだけなのだ」と。おおお、まさに青天の霹靂。私の悩みは、単なる責任逃れの自分勝手からくるものだったということだ。

高校生に上がって、三島由紀夫に心酔した。好きなバンドができ、面白いと思うお笑い人間ができた。自分の中で沸く興奮に、「私はこれが好き!」と言えることに満たされた。ひとに判断を任せている間、今思い返せば私の中は空っぽで、ある意味空虚な時を過ごしていた。自分で選ぶという責任を逃れている限りは、いつまでも満たされず、その不満を他人に押し付けていただろう。

「どんな企画だったら喜ばれるかなあ」なんて考えつつ書店をまわっていた。見つからない。帰途、自分が最近読んだ漫画や本を思い返したら、あった。あったあった。思わず声が出た。どうして忘れていたんだろう、あんなに面白いと思って読んでいたのに。思うに、私にはまだ自分の選択に自信がないのだろう。しかし、あったぞ。自分の中に答えがあった。これが選ぶということだ。責任を負うということだ。満たされるということだ。


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