下品な外野は、痛みを(たぶん)知らない。

どうしたって知りえない痛みというのがある。よく、バラエティ番組なんかで、男性が急所を蹴られて悶絶する姿なんかが、私にとってはそうだ。大変痛いというのは表情を見ればわかるが、どうもイメージがわかないため、しらけてしまう。

出産の痛みを形容する際に、「鼻の穴からスイカが出てくる感じ」と言われても、やっぱりピンとこない。私は子どもを産んだことが無いし、ましてや鼻の穴からスイカを出したこともないからだ。

逆に、生理痛で「常に腰を金槌で打たれているような」という形容には心から共感できるし、それ以上の苦しみに耐えている女性には「そういう時はこうしてみると…」と具体的な解決策を提示することも(たぶん)できる。もうかれこれ十数年苦しんできているからだ。

人は経験したことのない痛みには、心からの共感も、具体的な解決策を提示することもできない。どこまでも他人ごとで、しらけている自分が存在する。つまりは、外野でしかいられない。

よく、「苦しんだ分だけ人に優しくなれる」と言うけれど、あれはつまりは「優しさの度合い」ではなく、苦しみの経験により「共感し具体的な解決策を提示できる手持ちのカード」が増える、ということだと最近思う。

本当に苦しんでいるひとにとっては、共感と、具体的な解決策、どちらも欠けていては不十分なのだ。

私にとっては未知の業界で、「仕事がつらい」と日々苦しんでる友人に、恥ずかしげもなく「つらいならやめればいいじゃん」と言いかけて、あわてて言葉を飲み込んだ。

痛みを経験したことがない人間のするアドバイスは机上の空論でしかなく。気持ちがいいのは、言う人間ばかりで。

というか、声ばかりでかい外野っていうのは、やっぱりちょっとダサいですよね。

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