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何者にもなれない私たちは

深夜、小腹が空いたのに耐えられず、おでんでも買いに行こうと家を出た。すっかり深い時間に、イヤホンをはめて坂を登る。

ふと、昔、淡い恋心を寄せていたひとが「夜飲み足りないなと思ったときに、よくceroの“大停電の夜に”を聴きながらコンビニまでビールを買いに行くんだよ」と言っていたのを思い出した。youtubeで探し、私も真似して聴きながらコンビニに向かう。

曲を聴きながら歩く私の脳内は、曲のよさに感動しながらも、この曲を聴きながら彼は何を考えて歩いていたのだろう、ということでいっぱいだった。まるで何かに憑依されたかのように、思いを馳せながら夜道をてくてくと行く。

ふと思う。かつての彼との出会いがなかったら、私はどんな曲を聴いてこの夜道を歩いているのだろう。そもそも曲を聴こうとも思わず、ただお腹すいたなあとぼうっと歩いているのかもしれない。

彼とは結局何もなかったけれど、いまこうやって深夜、うっとりと聴きながら外を歩ける自分はちょっと好きだ。

“人生”は、自分の選択による結果の軌跡だけれど、選択する“私自身”は、こうやって過去の誰かによって作られている。

街灯の少ない夜道で、自分の輪郭が空気と馴染んでいくような気がした。こうやって、他者に生かされていると気づいたとき、硬直していた世界が、突如ほぐれて柔らかくなったような感覚になる。

私は世界に生かされている。

そう思うと、果たして“孤独”って、この世に存在するのだろうか。

コンビニまでの片道5分で聴き終わり、帰り道はiTunesに入っている洋楽の曲を聴きながらおでんを片手に帰る。そういえば、この曲もまた大切な友人に教えてもらったものだと気づいた。

私は生かされている。世界に生かされている。自分だけでは何者にもなれない私たちは、他者によって何者にでもなりうる。自分と世界の境界線が、限りなく細く透明になっていく。

なんだか無性に嬉しくなって、いつまでも外を歩いていたくて、つい遠回りをしてしまう。

帰宅後、すっかり冷めたおでんを食べながらも、まだ少し気分は高揚していた。

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