可能性って悪魔である

師をもつこと、について最近考える。特に私は特定のライターや編集者について仕事を学んできたというわけではないから、師をもち精進しているライターを見ると少し焦る気持ちが生まれたりもする。それはたぶん、彼らには明確な方向性および目的地がハッキリしているように見えるからだろう。

私淑、についても考える。つまり、直接教えを受けるわけではないが、心の中で師をもつということ。これは、いる。沢木耕太郎や村上春樹などの作家、懇意にしている大学教授、一度しかお会いしたことのライター、私が勝手に慕って目標にしているひとは多い。

見知らぬ土地で、地図ももたず目的もなく、ただただ歩くなんてことはしないはずなのに、それが人生ともなると、とたんに地図をもつのが怖くなる。"選択"というのは、"諦め"だ。あらゆる可能性からひとつを抜き出すこと。師が目的地であるとは思わない。しかし、誰かを師として模範にすることは、それ以外の方向性で生きて行くことを、一旦は諦めるということだ。

「〜かもしれない」という可能性が、私たちの歩みを遅くする。

「あの参考書の方がわかりやすいかもしれない」「あちらの仕事の方がお給料が将来上がるかもしれない」「どうせ会社に入ってもつぶれてしまうかもしれない」「このひと以外と結婚した方が幸せな生活が待っているかもしれない」

迷うというのは、あらゆる可能性を捨てきれていないということだ。自分の意思に責任をもてないということだ。"かもしれない幸せ"を諦めきれないということだ。

しかし、諦めない私たちは、じゃあ何をするのかといえば、何もしないのだ。行き着く先は「思考停止」だ。可能性を諦めきれずに向かうのは、考えることをやめた臆病者の墓。

昨夜、私淑しているひとたちの姿と、自分が興味のある分野、やってきた仕事などを省みて、新しいことを始めようと決めた。それはたぶん時間もお金もずいぶんと使うものだ。躊躇してしまう。もっと楽で快適な生活を送れるかもしれない、のに。締め切りギリギリになり、やっと思い切って応募を完了する。こういうところ、まだ臆病だ。

でも、と思う。臆病な自分を元気付けてくれるのは、心の中にいる師である。「諦めなさい」と言ってくれる彼らである。悪魔の甘いささやきを遠ざけるのは、清々しいほどに強い彼らなのである。

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