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オンライン取材がなんでこんなに疲れるのだろうと思った話

ここ1、2ヶ月で、届く仕事の依頼メールには当然のように「Zoom」という言葉が入り込むようになった。

この時期に仕事をいただけるのはありがたいことだと思いながらも(書いている媒体の傾向が違うライターによってはすでに悲鳴をあげている人もいるし、私もいつどうなるかは分からない)、個人的にはオンライン取材自体はあまり得意ではなく、終わったあとは決まって疲労困憊でその場で倒れこんでしまう。普段使っていない筋肉をひたすら動かしている感じ。

オンライン取材以外にも、メール取材や電話取材なども並行して行なっている。

電話取材は、対面取材のときと割と近い感覚がある。視覚は遮断されているが、相手の息遣いや声音、話のトーンなどにたくさんの情報がある。そこからなめらかにつながる会話がある。

一方、メール取材は緊張する。あまり何度もやりとりできる相手ではない(大変多忙な時期にご協力いただいている)ので、質問状の時点でガチガチに固めておかないといけない。どうしたら相手が打ち返しやすい球を(そしてできる限り遠く飛んでいく球を)投げられるか、一球に「的確な言葉」を込めるために頭を悩ませる。

ずっと利き手じゃない方で仕事をしている感覚だ。それは私が今まで対面取材を主にしてきたからというのもあるが、それ以上に、今まで自分が何に依存して何をおろそかにしてきたか、ということの方が考えるべきことのような気がしていた。

これは個々人の性質による話だとは思うが、振り返ると、私は今までの対面取材で、相手に見せる表情や相槌のタイミング、相手との距離感のための言葉選び、話すトーンなど、かなり非言語のコミュニケーションに頼った取材をしてきたのだな、という気づきがあった。

もちろん入念に下調べをした上で、きちんと言葉で対話するわけだから、非言語も言語も合わせて行なっているわけだが、私は自分の拙い語彙を補完するために雰囲気に頼っていた部分が絶対にあるのだ。

これがライターの性質としていいのか悪いのかはわからないし、「空気を読むこと」自体を貶す気もないし、そもそもそこには判断材料がないように思う(非言語コミュニケーションに頼りがちだったとしても、言語にすべき情報をきちんと取ってこれるのであれば問題ないので。取ってこれるのであれば……)。

ただ、状況が変わったときに仕事がしにくくなったのは確かで、自分に圧倒的に足りていない部分を目の前に突きつけられた気分だった。

ちなみにオンライン取材なら顔見えてるじゃん、とも思うかもしれないが、あれは多少のラグが発生している時点で、空気を読むみたいな能力はむしろ邪魔になる(下手な相槌を打つと相手の発言とかぶったりして話が止まる)。

というわけで、いまはもう少し自分の中の論理性を高めていきたいなというのが課題。といっても、普段より本を読む量を増やしたりくらいなので、他にいい方法があれば誰か教えてください。「オンライン取材をうまくやるコツ」みたいな話は一切いらないです。

ちなみに、本筋とは関係ないが、今回の件でひとつ思ったことがある。

よく「あの人Twitterではひどい(※この場合、悪質な誹謗中傷やデマの流布などというよりは、軽薄な発言内容や煽るような言動を繰り返す人を指すことが多い)ことばかり書いているけど、実は会ったらすごくいい人なんだよ」という言葉を聞くが(リアルでもインターネットでも)、これは本当にまったく当てにならない情報だな、というのを改めて理解した。

もちろんインターネットでの発言が人格や思考の全てだとは言わないし(むしろ「振る舞い」も含めたごくごく一部のものだろう)、「いい人」と「悪い人」と分けること自体がそもそもナンセンスだが、「いい人だったよ」とその人がいうとき、おそらく彼らの長けた非言語コミュニケーションに巻き取られただけなのだろう、というのは容易に想像できる。

私自身、普段のネット上での言動や仕事に全く敬意をもてない相手と実際にお会いする機会があったとき、相手の気遣いや表情の見せ方、距離の詰め方など、高度な人たらしテクに驚いたことは何度もある。発言内容はマジで空っぽだった。(自分にもブーメランである。)

そういった距離感の詰め方に対して、私たちはもう少し冷静であるべきだ、と思ったのも最近のことである。

「なんだか憎めないあの人」が、実は私たちの生活に大きな(そしてネガティブな)影響を及ぼす(すでに及ぼしている)かもしれない。気がつけばたくさんのものを雰囲気で誤魔化されて奪われているかもしれない。仕事、政治、家族、友人、どんな関係においても。


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