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「遠くに行く」ということ

この間、経済感覚のまるで違う相手と飲みに行った。お酒が好きなんだよね、と言ってもレベルが違う。私がKALDIで買える1000円のワインで満足できているのに対して、彼は名前も聞いたことがない銘柄のものばかり並び立てる。傘忘れないようにと言うと、「まあ別にいらないけど」と言うし(けっこう良さそうな傘だった)、1駅分の距離をタクシーで来ようとし(止めた)、2駅分の距離をタクシーで帰った(無言で見送った)。

その夜、旅行の話題になって思ったことがある。彼は、ここしばらく電車に乗った覚えがないという。旅行のときも新幹線ではなく、飛行機で行くという。曰く、「だって早く着いた方があっちでいっぱい遊べるじゃん」。

大学生の頃、車谷長吉が好きでよく読んでいた。「赤目四十八滝心中未遂」という作品が有名で、ふと思い立って、舞台となった赤目四十八滝に行ってみることにした。新幹線でも行けたけど、なんとなく、青春18切符を使って9時間電車を乗り継いで行った。

桜の季節でも、紅葉の季節でもなかった。観光客は1人も見当たらない。わりとけわしい山道を、ひとり黙々とのぼる。歩き始めた直後に地図を谷底に落としてしまい、ただひたすらに道なりに歩いていた。道中、「15時以降は登らないでください」という注意書きを見たのは16時だった。ただ、不思議と何の恐怖もなく、それどころかとてつもない開放感と清々しさに、心が浄化されていくように感じたのを覚えている。

思えばあの時、ちょっとした誤解と被害妄想で、人間関係が面倒くさくなっていた時期だった。誰もいない山道、高い空を見上げながら思ったことは、「あそこだけが世界じゃなかったんだなあ」ということ。国内にもかかわらず、こんなにも元いた場所との距離を感じることができる。世界は思っていた以上に広いらしい。

遠くに行く、というのは、単なる距離の問題ではない。新幹線も飛行機もネットも発達した現代において、「遠くにきた」という感覚をもつのは難しいのではないか。距離がある、もしくはない、この0か100かの世界で「どこにも逃げ場がない」と閉塞感に苦しくなってしまうのは至極当然の話だ。

で、その解決策は大変単純なことだが、まずは自分の足で地をふみ、時間をかけてどこかに行ってみればいいのだ。私は赤目四十八滝に行ったとき、いつも通りSNSなども利用していたが、不思議と普段よりも距離をおいて見ていられる気がした。それは、「遠くにきた」という実感によるものだ。

彼と話していて、私はそもそも、旅に対する目的が違ったんだな、と思った。私が求めていたのは、あくまで「遠くにきたという実感」で、もっと言えば、「すべてのひとたちとの適した距離感」だった。すぐに距離感を間違えてしまうタイプなので、体で覚えるしかないのだ。

なんとなく一人旅がしたいなあ、と思うことが増えたので、ふりかえってみた。というわけで、もうちょっとしたら、鈍行に乗ってどこか〝遠く〟に行こうと思います。

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