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そう考えると花粉症による鼻水もアートなのか(違う?)

お笑いが好きだ。アートが好きだ。漫画が好きだ。小説を読むことが好きだ。食事よりも間食の方が好きだ。誰とも会わないのに化粧を丁寧にしこんだりする時間が好きだ。「無駄こそ全てだ」と思っていた。人生において、「あってもなくてもいいもの」こそが私を悦ばせるのだ、と。

今日は、丸の内ビルで行われたアートイベント「AMIT2016」へ。〈都市〉〈テクノロジー〉〈アート〉の可能性について考察するワンデイ・イベントだ。丸の内ビル1階では、メディアアート作品の展示や、メディアアート関係者によるトークセッション、ライブなどが行われている。以前から気になっていた落合陽一氏が、14時からプレゼンをするとのことで、あわてて会場に向かった。

落合氏は自身のメディアアート作品も展示していた。《コロイドディスプレイ》(2012)は、シャボン玉に超音波をあて膜を細かく振動させることで、蝶を映し出している。ここに映っているのはモルフォ蝶で、この蝶の羽の澱粉のキラキラは、人の手じゃ再現不可能なのだそうだ。

この作品を作るため、落合氏はどの角度から超音波をあてるかといった仕組みを数式で記していく。「この過程を見たら、アートとは思いがたいかもしれませんね」「でも、これからのアーティストは、こういう部分まで考えていかなければいけないんだと思うんですよ」私にはチンプンカンプンの数式や仕組みを説明する落合氏は、まさに通り名とおり"魔法使い"のよう。

とうとう、コンピューターがアニメ絵を描くことができる時代になった。攻殻機動隊作品のような人工知能が支配する世界観が遠い時代ではなくなった。とうにドラえもんが住んでいた世紀に突入し、私たちはタブレットをあたかも当然のようにポケットにしまっている。コンピューターは、もはやひとが想像もしていなかったことを実現できるようになってしまった。

落合氏は言った。「現代から振り返れば、エジソンは、文化的な側面で言えばたしかにアーティストだったんです」もはや、すでにコンピューターが人間の手を離れ始めている。人間は機械のお守りをしなくてよくなった。人間は新たな段階へ、人間の目と耳の限界値を超えたもの、超自然的な領域にいく。そして、それは文化が成熟した現代において、発明ではなく、"アート"なのだ、と。

以前、東京国立近代美術館の「恩地孝四郎展」に行った際、展示されていた雑誌『感情』に、このような一節があった。

藝術は作為ではない。一個の必然的な生活の流出である。よき作品はよき生活に作動する。恒久的なものの一部分である。技巧を超えたところに藝術の眞境がある。(『感情』20 1918年6月5日発行 感情詩社)

言葉を借りるなら、「新たな作品は新たな生活に作動する」のかもしれない。

コンピューターが発達し、日常生活、とりまく環境が日々刻々と変わる現代。われわれは新たなフェーズの表現方法を探し始める。それが、生存本能からかどうかはわからない。しかし、これは文化が成熟した上での、必然的な現象なのだ。つまり、アートは、生活の余剰ではない。われわれ人間の、必然的な流出、生きていく上での本能……なのかもしれない。

そんなことを、花粉のせいでぼうっとした頭で考えていた。

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