一瞬の言葉と、永遠の反芻
口ではえらそうなことを言いながら、まるで行動が伴っていないひとがいたりする。
私だ。
時折自分で書いたものを見返したりしながら、大概はその文章の稚拙さや語彙の少なさに辟易としたりするんだけど(それはつまり、成長の証というポジティブな形でとってもいいだろうか?)、時折「ああ、そうそう、自分はこのとき、こんなに強く生きていた」と過去の自分に励まされる瞬間がある。
“言葉”の力というのは、よくも悪くも“一瞬”だ。
どんなに大好きで、心の中で愛していても、たった一度きりの「愛している」という言葉では、相手は5年も6年も満足することはできない。言われたときの喜びはいつか霧消するか、なんだか非現実的な思い出の箱に入ってしまう。
どんなに心うたれる名言やセリフや、小説の一節があっても、それを目にしたときの新鮮な衝撃は、何ヶ月ともつものではない。「こんな風に生きればいいんだな」と救われたとしても、たった一度の巡り合いが、その後の人生を強固にすることはない。反芻しない限りは、数ヶ月後に同じことで悩んでいるだろう。
言葉のもつ力や影響力というのは、よくも悪くも一瞬で、結局は潜在意識にまで浸透していくまで根気強く反芻する“習慣”こそが救いなのだ。
よく「とても考えさせられました」というセリフが揶揄されるのは、そういうところにある。考えさせられたのは、言葉のもつ瞬発的な刺激が脳に作用しただけの話で、それが身につくかどうかは今後の反芻にある。
というより、現時点では刺激を受けただけで、“思考”と呼べる領域まではいっていない。だからこそ安易に「考えさせられました」なんて言ってしまうと、見透かされてしまうのだ。揶揄する方も心が狭いし鬱陶しいなあ、と思うけど、本当に考えたいのなら、やっぱり口にしない方が得策じゃないかなあ。
最近の私は悩みがちで、考えることを放棄しがちだ。考えるって、面倒くさいし。だから、そんなときは自分がなりたいなあと思う生き様を歌うアーティストの歌を延々と聴き続ける。いつか潜在意識に浸透して、それが私の生き様となるように、毎日反芻して反芻して、いつか考えるときの力となりうるように。
そうさ合言葉はいつでも どうせいつかはさらばさ 「いつかさらば」(詞:森山直太朗、御徒町凧)
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