美味しいものを食べて「うまー」しか言えない自分

ただいま取材記事を執筆中。ちょっと休憩。

昔、原稿を編集の方に赤入れしてもらったとき、「中身のないものを作っても仕方がないのだよ」とお叱りをうけた。「われながらいい出来だぜ」なんて思っていたせいで、真っ赤になって返ってきた原稿にギョッとした。当時の私にとって、取材記事というのは、相手が話した言葉をそっくりそのまま世間に投げるものだと思っていた。自分が編集する余地などは考えていなかったし、たちの悪いことに、それが自分の誠実さだとはき違えていたのだ。

つまり、それは怠慢だ。私は「言葉を選ぶ」ということを放棄していた。仕事だけではない。コミュニケーションにおいても、浮かんだ言葉、疑問をそのまま投げれば相手に伝わると思っていた。それこそが誠実で嘘がない姿勢だ、と思っていた。自分の生き方にしみついた悪癖は、いたるところで露出する。

思ったことをそのままメモする場所がある。仕事のネタや今日の買い物、不満や愚痴など。久々に見返してみたら、ずいぶんとつまらない掃き溜めでしかなかった。血の通わない、どこにでもある凡庸な風景。

「あさはかだ」と思う言動は、言葉を選ぶという手間を省いた結果なのではないか。どのような形で受け取られるのか、その想像力を欠如している自分から生まれる言葉は、オリジナルのようでオリジナルではない。考えることを放棄した脳みそが使う言葉は借り物で、メモにある私の言葉は私の言葉ではなかった。

いつまでも自分の言葉で生きていきたい。たとえ疲れても、思いつかなくても、至らなさを実感しても、それこそが自分が自分であるための唯一の方法だ。だから、言葉を選ぶのだ。

言葉を選んで書いたら気持ちがすっきりしたので、休憩終了。仕事に戻る。

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