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どうして優しいひとは間違った相手を選ぶのだろう

【注意】文中に映画『ウォールフラワー』のセリフの引用などネタバレがあります。

昔から、“あたたかい”ものに憧れながら、“あたたかい”ものが苦手だった。

幸せな家庭に育ち、友人や教師にも恵まれ、何不自由なく生きてきた身で何を言っているんだ、という感じだが。どこかで“あたたかい”の一線を越えると、心が拒否反応を起こし、必ずといっていいほど吐き気を催してしまう。

「あなたが大切だ」と言ってくれるひとよりも、私のことなど頭の片隅にも置いてなさそうなひとといる方が、気が楽だった。あたたかい家庭を築いてみたいという思いはあれど、そんな家庭とは程遠そうな(安らぎがない)ひとに惹きつけられてしまう。正直なところ、つながりえない二次元のキャラクターやアイドルを追いかけているときの方が、ずっと心が平穏だったのだ。

今はだいぶ心持ちが変わってきたけど、時折自分の中のそういう部分に気付いて、自分のことながら困惑することがある。

Netflixで『ウォールフラワー』を見た。

初めてひとりで映画館で見た映画は『少年は残酷な弓を射る』だ。それまで人並み程度(もしくはそれ以下)にしか洋画を嗜んでいなかった身だったので、平日ガラガラの映画館にひとりポップコーンを持って足を踏み入れたときの緊張は未だに覚えている。主演のエズラ・ミラー見たさだった。

『ウォールフラワー』も、エズラの麗しい容姿見たさに気になっている映画だった。ローガン・ラーマン演じるチャーリーは度々襲われる幻覚に怯え、ひどくシャイな高校1年生だ。しかし、入学後エズラ・ミラー演じるパトリックと、エマ・ワトソン演じるその義妹サムに出会い、日常はがらりと変わる。

作中には、何度もハッパを吸っている場面が出てくる。パトリックとサム、そしてその仲間達は、いわば“社会のはみだしもの”だった。

サムはとても美しく、強く、優しい。チャーリーはサムに一目惚れしていた。しかし、肝心のサムは、自分のことを大切にしてくれないひととばかり付き合い、傷ついて、を繰り返す。

チャーリーは親しくしていた国語の教師に言う。「どうして優しいひとは間違った相手を選ぶのだろう」。教師は答える。「自分に見合うと思っているからだよ」。

“自分を大切にする”というのは、思いのほかむずかしい。自分が選ぶ環境は、自己評価の写し鏡だ。「私はこの程度の会社で働くべきだ」とか、「私はこの程度の偏差値の学校を狙うべきだ」とか、そうやって取捨選択しているとき、自分で自分の評価を残酷に位置づけている。

「自分は不幸がお似合いだ」と思っているひとにとって、正しい相手を選ぶというのは、身の程知らずの恥ずかしいことなのだ。「自分には幸せになる資格がない」と思う人間が、どうして自分を大切にしてくれるひとを選べるだろう。

うつやパニック障害など、多くの精神病は“優しいひと”がなるとよく言われる。他人の顔色を見て、つい口をつぐんでしまうひと。自分を抑圧しやすいひと。これは、つまりは自分が二の次であり、自分に対しては、ずいぶんとつらく当たっているということなのだ。

しかし、それは誰も求めていないことであり。その感覚を持ち得ない第三者からすれば、自分の尻尾を噛みながらぐるぐると回っているだけに見えるのかもしれない。

『ウォールフラワー』は、その作品が扱う、“同性愛”や“薬物乱用”、“精神病”などといったテーマによる精神療法から、アメリカ図書館協会が選ぶ『2009年度最も推奨する本』でトップ10の中で第3位を獲得した。

確かに、劇中の彼らは、各々に苦しみもがきながら前へと進んで行く。そして、結局のところ彼らを苦しめるのは、自分を抑圧しやすい“自尊心の低さ”だ。

「どうして優しいひとは間違った相手を選ぶのだろう」

優しさとは、なんだろう。

チャーリーのこの問いは、あたたかくて、それでいてあまりにも残酷だ。

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