【2024.2.24】逍遥博物館
二日経ってから書く日記、興奮するね。
24日は突然思い立って、駒込にある東洋文庫ミュージアムと東京国立博物館をはしごすることにした。
まずは、いすみの本邸から電車を乗り継ぐこと2時間、東洋文庫ミュージアムへ。
「この格好で行ったんか?」
「Yes, I do.」
(小学生英語)
このとち狂った日記を読んでくれている方なら、だいたいあたしがどんな人間か分かってくれていると思うので、あたしのファッションについては割愛しようと思う。
東洋文庫ミュージアムでは
「キリスト教交流史ー宣教師のみた日本、アジアー」
という企画展が開催期間で、この展示こそがお目当てだった。
あたしは日本人という現象について研究している在野の思想家(という奇人)のため、日本人がどう形成されたのかを知るためにさまざまなものを参照しているのね。
日本にキリスト教がやってきたことは、確実に日本人に何かしらの変化をもたらしたと思っていたので、そこにフォーカスした展示は願ったりだった。
で、展示を眺めていて興味が湧いたのは、
かのイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルが豊後国の大名・大友宗麟邸で仏教とキリスト教の違いに関する議論をおこなったくだり。
願わくばあたしもこの議論に参加したかったな。
西洋哲学史をたどっていくと最終的に東洋哲学にたどり着くくらい東洋の哲学は完成されたものだという認識があるんだけど、その東洋哲学に裏打ちされた仏教にキリスト教が挑むのはなかなかにドラマティックで面白い。
ちなみに大友宗麟みたいに仏教からキリスト教に改宗した人は当時の九州にはたくさんいたんだけど、中には「やっぱりキリスト教ちゃうわ」と仏教に再改宗してめちゃくちゃキリスト教批判の書籍を著した人なんかもいて、なかなかに当時の日本人の葛藤模様が見られて良かった。
あと他にも面白いなって思ったのが島原の乱。
天草四郎だの踏み絵だの隠れキリシタンだのの話は小中学校の歴史で学んだけど、改めて今島原の乱という現象を俯瞰して見たとき、これがいかに恐ろしいものだったかが分かったよ。
乱を制圧する側にいた松平輝綱の「島原天草日記」で、
という表現があってゾッとしたね。
それと他にもね、中国にキリスト教を宣教していたマテオ・リッチの順応政策も勉強になったな。
順応政策っていうのは、敵対的に宣教していくのではなく、その土地の文化や信仰を否定せずに溶け込ませるように宣教していく政策ね。
この順応政策が後の典礼論争(キリスト教と中国の伝統文化がどうバランスとっていくかの論争)を生み出してしまったわけだけど、それでもマテオ・リッチの考えは分断が溢れる現代に生きるあたし的にはとても参考になったな。
とまぁ、そんな感じでとても勉強になった展示だったので、ついつい東洋文庫ミュージアムだけで1,000字も書いちまった。へへ。
その後、東洋文庫ミュージアムがある駒込から45分歩いて上野の東京国立博物館へ。
「本阿弥光悦の大宇宙」という企画展が開催中なので鑑賞することに。
ちなみに、本阿弥光悦という人物に関してはちょろっと知っている程度の知識レベル。事前に調べたりもしていない。
その状態であたしは展示を見て、なんと30分で出てしまったのだった。
たぶんじっくり見て回ったら2〜3時間はかかるところを、たったの30分。
おいおい、2,100円もかけて30分しか見なかったの?
と思うかもしれないけど、決してつまらなかったわけでも時間がなかったわけでもない。
ただ、あたしにとって
「作品の鑑賞は本番ではない」
というだけのこと。
人って何かを鑑賞するとき、ついつい「鑑賞する」という行為を全力でおこなってしまうと思うんだよね。
だから、詳しくなくてもじっくりと展示されている作品を眺めると思うし、それこそが「鑑賞」だと考えていると思う。
人によっては目録を読んだり音声ガイドを聞いたりして、より目の前の作品をじっくり眺めることに没頭するだろう。
一見するとそれが正解のように感じるけど、あたしはちょっと違うと思っているんだよね。
あたし的には、鑑賞の本番は
「それまでどうやって生きてきたか」
あるいは、
「これからどうやって生きていくか」
なんだよな。
本阿弥光悦という人間は日本文化に多大な影響をもたらした数寄者。
数寄者とは世の中の様々な事物に関心を示し、とりわけ芸術に執心した人物のこと。
あたしも世が世なら数寄者と呼ばれる身だったろう。
だからこそ、あたしは本阿弥光悦という人間に興味を持った。
だから、決して彼の作品をじっくり見ることが目的ではないんだよね。
あたしは本阿弥光悦という人間が存在したことに触れられただけで、十分に目的に達したと感じたのであった。
ちなみに、さーっとだけど彼の作品も見てはいて書と陶芸がとても良かったね。
どう良かったかは、きっとまた人生のどこかで深く考えることになるだろうから割愛。
何にせよあたしにとって鑑賞とは、展示期間に然るべき場所で展示作品を眺めることではなく
「人生をぶらぶらと歩くこと」
に他ならないって話だね。
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