【2024.3.17】52Hzのクジラは白昼夢を見ている

「ナナシロさんって、愛する人が自分の元から去ったとき取り乱すことはないの?」
と聞かれた。

あたしはこれまで恋してきたたくさんの子たちを思い浮かべたけど、そういえば誰との別れでも取り乱したことが無かったな。

どうしてだろう、と考えた。

特別じゃなかったと言えば嘘になる。
むしろどの子も神と同じように崇拝してきたと思う。

隠れキリシタンには踏み絵を拒否して殉教する人間すらいたというのに、あたしは別れが特別に感傷的なイベントにはならなかった。

嫉妬することも後ろ髪を引かれることもない。
別れは別れ以外の何ものでもなかった。

お別れして次の瞬間にはもりもりご飯を食べ、
「今度はどんな子と出会うんだろうな」
などと空想する。

日常が続く。

なぜだろうか。

ちょっとの間考えてみて
「たぶんこうじゃないか」
というものがあった。

あたしは大前提が他の人と違っている。

「人間が実存し確かにそこに在る」という前提が。

人は、時も記憶も喜びも侘しさもすべて在るものとして振る舞っている。

世界は多様な物事で溢れ、それを手にとって選びながら生きていく。
そこには確かな実存があると思っている。

でもあたしはその感覚が無い。

あたしにとって自分も世界も存在しないものでしかない。
確かさを感じるあらゆるものは幻想を見ているに過ぎない。
言ってしまえば、あたしたちは生きている夢を見ているのだ。

あたしたちは愛し合い、触れ合っている夢を見ている。
幻想の中で抱き合っている幻覚を見ている。

それが分かっているから、あたしはどうにかしようとしない。
夢は自動的に再生されるものだもの。

走馬灯のように煌めき続ける映像をひたすらに見ている。
あたしはそれを分かっている。
それを分かった上で、溺れたり浮かんだりしている。

あたしは深く息を吸って潜水する。
あなたの声のような海鳴りを追って。
奈落の淵へ向かって溺れていく。
海底に触れると、それは紛れもなくあなたの乳房であろう。

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