主張回避癖について、まとめ。
こんにちは、ぱぴた・りさです。
先日、音声配信でぐちゃぐちゃとお伝えした『主張恐怖症』改め『主張回避癖』についてまとめたいと思い、記事を書きました。
まず、『主張回避癖』とは文字通り、主張することを回避する癖のことです。私はこの癖が多く発動されます。いわゆる「主張を飲み込む」場面が多い、とも言い換えられます。私はこれで苦い思い、悔しい思いをたくさんしてきました。
今回は、なぜ『主張回避癖』が発動されるのか?どうしてそれを苦い、悔しいと思うのか?また、それで悔しい思いをするなら今後どうしたらいいのか?を書こうと思います。
では最初の、なぜ『主張回避癖』が発動されるのか?からはじめましょう。人によって理由は異なると思いますが、私が過去感じていた理由を以下の3つにまとめてみました(今回は私ともう一人の人物の主張が異なっているという状況を前提として話してみます)。
1.他者との主張の違い(違う場合が多い)による感情的衝突が苦手
2.他者との価値観の違いを説明することが能力的・体力的に厳しい
3.時間や体力面から見て、自分が主張しない方が話がスムーズ
多分これをものすごく強く恐怖心として感じてしまうのは、自分の幼かったころの家庭環境や周囲の環境の影響が大きいと今は思っています。
この3つの理由をもう少し詳しく解説します。
1.他者との主張の違い(違う場合が多い)による感情的衝突が苦手
これは、私は割合繊細と言われる気質なのではないかと言われている部分に関係していると思います。私は特に人の感情に関わる部分での共感性が強いです。そうすると、主張が異なる場合、衝突によって話し相手の混乱やそれによる苛立ち、ひどい場合はそれが私のせいであるかのように振る舞われたことがあり、それに共感してしまうと私も苛立ったり私が悪かったのかと自分を責める方向になってしまいます(これは境界線引きという別の要素ともかかわってきますが、今回は割愛します)。これは家族によくされていたようなので、そのときのトラウマが今も残っているのだと思います。
2.他者との価値観の違いを説明することが能力的・体力的に厳しい
これは、上記1の内容ともかかわってきますが、話し相手が私の主張(私の価値観)を受け止めることのできる状況でない場合、上記のようにその相手は混乱や苛立ちなどのネガティブな感情になる場面が私の経験ではとても多かったです。そのとき、そういう状況になってしまうのは価値観の違いからで、その違いをうまく説明する能力が私にはなかったですし、また説明に対する準備もできていなくて、先に共感性が来て自身も苛立ちや混乱状態になってしまうので、その感情を扱いながら相手を慮り説明をするという体力もなかったし姿勢の作り方も分かっていなかったので、主張回避癖が強まりました。
3.時間や体力面から見て、自分が主張しない方が話がスムーズ
そして、これです。価値観が違う場合で相手が私の価値観を受け止める準備ができていない場合、私が自分の主張を飲み込むことで得られる最大のメリットは、時間や体力の節約です。
ただ、それで終わればいいのですが、この場合は相手が『この人(りさ)は、私と同じ価値観だ』と勘違いされたまま話が進むことになります。もしこの人が『りさは大人しそうだ』『りさは真面目そうだ』『おとなしくて真面目だから何を言ってもいい』という価値観だったときに、私が自分の価値観を主張しないことで、その人から望まない扱いを受ける可能性がとても高くなります。また私の『おとなしくて真面目だから何を言ってもいい、という考え方は何を根拠にしているのかよくわからないし、その価値観で私を扱うのはいやだ』『私はあなたが思っているような人間ではない』という主張が胸の内に出せないままで苦く悔しい思いをし、また不当な扱いを受けることも残念ながらあったので、どうやってうまく自分の主張をするか、ということはずっと私が考えてきたことの一つです。
ここまでで私が言いたいことは、
主張しないことは、相手と主張が異なりそうな場合、主張後に考えられるあらゆる状況を考慮して(主張後場をまとめられる気がしない、自分の体力や精神がすり減る感じがする、主張を飲み込んだ方が話がスムーズなど)、リスクヘッジをしているともいえると思います。なので、これはこれで必要な判断である場合も多かろうと思います。
ただ、主張をしない、という体制でずっといると、自分の中でもやもやがわく、あるいは増えることも考えられます。私はそうでした。主張できないことが苦い、悔しいと感じていたんです。
なぜなら、私が主張しないことによって、私がされて嫌な行動を相手がし続けてしまう場合もある。あるいは、私という人間の価値観を相手に勘違いされたままミスコミュニケーションが続いてしまう可能性もある(優しそうだから何を言っても許されるなど)状況に大なり小なり不快感を持っていたからです。
つまり私は、主張することによる相手との関係性のマネジメント負担のリスクと、主張しないことによる自分のフラストレーションリスクとを天秤にかけた結果、相手との関係性のマネジメント負担のリスクを回避する選択をしていたのだと思います。
そして、今自分はいろんなことを経てきてやっと、『主張回避をすることで悔しい思いをするなら今後どうしたらいいのか?』ということを考えるようになりました。
きっとそこに至るまでは、回避し続けて安全地帯まで退避し、さらにどうするか体制を整える準備をすることが私にとってとても大切だったのだと、『今後どうしたらいいのか』を書く前に書いておきたいと思います。
さて、今後どうしたらいいのか?という部分について、今私が個人的に感じて実践していきたいことを書きます。こうした方がいいよ!と読んでくださっている方にアドバイスいうことではないので悪しからず。
それは、
まず、相手に飲まれない姿勢になってきた
そして
現状、私がこの体験を声にしていくこと
です。
実は私は今まで、目の前にいる人はすべて、ある種神様のように完璧な存在だと思っていた、もしくは完璧に理想的な人間であると壮大な勘違いをしていました。
なので、目の前にいる人はすべて、私よりずっと正しくて、私が従属すべき対象で、私が話を100%聞き入れなければならない存在だ、と思っていたんです。だからこそ、相手が少しでも道徳的に不審・不誠実な点があると、理想と違うと内心怒って責め立てていた部分もあったと思います。私には、若干共依存をベースに関係性を作る癖があったのですね。
原因はいろいろあると思いますが、この状況を一言で言うならば、私は相手に飲まれていた(相手への過度な期待などをして、だいたい自分から)のではないかなと今思います。この表現が真に正しいかはわかりませんが…私の場合はそんな感じだと思います。
なので、相手も神様じゃないし、やっぱり人間は人間だし、自分と違う生き物だし、みたいな気持ちでいると、相手に飲まれない・従属しない・話を100%聞き入れなくてもいいやというスタンスでいられます。
そのスタンスでいると、私の場合は得意の分析能力が働きます。その人が話の際、無意識に前提としている価値観は何だろう?と客観的に見ることができるようです。そうすると、『あ、この人と価値観相当違う』ということになり、私の話が届く範囲外だったら距離を取ることができるし、どこか共通項があって話をしていくのがおもしろそうと思えば対話を深めることができると感じます。
その結果、自分が言いたいことは流れの中で言えるようになる場面が、昔に比べて増えてきました。
もちろんまだまだうまくはいかないですし、ひとりひとりケースがまったくことなるので、私は『主張回避癖がなくなりました!』とか言うことは全くありません。今後は今よりも扱いが難しい状況に立たされる可能性がとても大きいのは覚悟しているのですが、とりあえずは今回主張回避癖について書いてみて、いろいろ浮かんだことがあったし、以前より考えをまとめられてよかったなと思いました。
※今回もまだぐちゃぐちゃかもしれないけど、これでも最初にこの考えが浮かんだ頃よりかだいぶすっきりして書けたのよ!
また、今の私がこの体感になったのは本当にラッキーなことだと思っているので、このことをもっと話していった方がいいんじゃないかと思っています。私がこの体験を語ることによって、主張回避をしていたときの状況をいろんな人に知ってもらい、主張回避をしなければならない状況にある方のフラストレーション軽減につながったらいいなというわずかな希望があります。
と言うのは、主張回避をせざるを得ない状況の際、その相手が『主張回避せざるを得ない人がいて、その人の心理的負担が大きい』ということを知らない可能性がものすごく高いと思います。目の前の人が、足を骨折しているときに、重い荷物を運んでとは頼まないですよね。目の前の人が、心理的負担を感じやすく主張回避する人であるかもしれないという認知が広がれば、そこに配慮したコミュニケーションも可能になるかもしれないと感じています。
なので、今回言いたいこと、まとめ。
1.主張回避癖はリスクヘッジと言えるかも。そのときはそのままでいいと思う
2.主張回避でフラストレーションがたまったら、できることならその環境から退却する選択肢を持つこともいいかもしれない
3.退却して、トラウマへの対処含め心身が落ち着いたら(これはこれでまた結構大変だし重要なので一言で片づけられないのだけど)、自然と主張に必要なマネジメントができるようになってくるらしい
4.この自然にできるようになる(私の場合はできるようになっているかどうかよくわかっていないけれど…)には時間もかかるしタイミングもあると思うので、主張回避をせざるを得なくて心理的負担があるという人もいるよという認知がもっと広がって、お互いに思いやりをもって話せる場がふえたらいいな…
私がそうやったから、あなたもそうやってください、っていうのは違うと思っているんです。だって私とあなたは全然別の人間だから。
なので、私がした体験で語れることがあって、そこから「あ、そういうこともあるんだ」という認知が広がって、人同士のコミュニケーションがもう少しストレスフリーで円満なものになったらいいなと期待を込めつつ、今回の話を締めくくろうと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?