死ぬって何?

アベプラ木曜日は結構すき。
自分の経験をまっすぐ話すし、わかんないから教えて?こういうこと?って聞くEXITがいるから。結論付けしないことも大切にしているのかな?アナウンサーさんがすごく柔らかく感じる。どんな考えでも大丈夫だよって。
だから私も真剣に考えられる。

今日は安楽死について議論している。

今、私は生きている。いつ死ぬか分からない。明日死ぬかもしれない。ずーっと死なないかもしれない。
それは誰もわかんない。
死にたくなったことなんて山ほどある。死にたいじゃないな、消えたいかな。はじけ飛んでみんなの記憶からパンっとなくなりたいなって。
昔ね。

なんだろう。
治らない病気をずっと経験していて、生きていくことを終わらせたい気持ちを理解しようとしたくないって訳では無い。

生き甲斐がないから自分の意思で死ぬんだ。って、
自分の体に起きている不幸な出来事、そりゃ辛いと思うんだけど、というかその辛さは相当なもので私の想像を絶するんだろうから、軽い言葉で語られたくないと思うんだけど

なんていうんだろう。
私の体に絶望的な不幸が起こったとき、安楽死させてくれる?
私の心に絶望的な不幸が起こったとき、安楽死させてくれる?
これは一緒?多分違うよね。

でも心が絶望的になった時には回復する見込みがあるの?心の絶望から回復する見込みがない場合だってあるよ。

体と心の痛みに差をつけなきゃいけないのかなぁ。

私が違うんだろうなって捉えているのはなんでだろう。


心の絶望は気合いや根性で治るって思われてるのかな。自殺するしかないのかな。そう思っちゃう。

体は気合いや根性で治らないのかな。そういう議論でもないと思う。

体と心でわけるのが私は嫌だからかな。
心の病気とか言われるのが嫌だし、脳の病気だし。

自分の人生の主導権を握るための手段に「死ぬ」は入るのかなとか。


いや、私はそもそも自分の最期を自分で決めたくない。
私は死ぬために生きていて、死んだなって時に「あら死んだのね、まぁいっか」ってなれるのが理想。だから逆に死ぬことを考えて生きてない。生きることを考えていつの間にか死んでたい。

自分がいつ死ぬか決める。それ、私の役割じゃないもんって投げ出してるから。
今は。

それは私の価値観。押し付けるつもりはないし、多数決をとる必要すら無い問題。

だから余計よくわかんないんだろうな。

でも生きること、死ぬことってすごく難しいよ。なんで生まれたのか知らないもん。宗教的な考え方に頼るしかなくない?
だから議論されていて、国や地域で考え方が違うんだろうな。
でもきっと永遠に正しいことなんてわかんないんだろうな。


最後の方にちゃんとコメントがあった。
だから私も、安楽死を心に決めた人の言葉はやっぱりたくさん聞きたい。

自分の思いも確認して、お互いの考え方を否定しないでいたい。私はそうありたいなと思う。

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