そういうことにした。/2024年5月24日

困った困った。体調がぐちゃぐちゃだ(った)。いまこの文章を書いている5月24日9時51分24秒――と書いている間に誤字をしまくり52分になった――の時点ではだいぶ復調しているのだが、この2、3ヶ月の間は僕の人生のなかでも下限を叩きつづけるような日々であった。どんどん、と底を叩いたと思えば、そこにある底は底ではなく、まさにどんどんどんどん地下にぶち抜けていくような日々であった。底が抜けている。村上春樹は「小説を書く」ことを「穴を掘る」という比喩で説明した。いまそれは書きたいことと関係がない。いや、あるかもしれない。結論を先取りして言うと、僕の穴からは温泉が噴き出さなかっただけなのだ。それだけなのだ。

「体調がいいorわるい」とはどういうことなのか。もっといえば、「体調」あるいは「調子」という不可視な概念をどうやって測定するのかといえば、僕の場合は「どれくらいのペースで本を読めているか」で図るのが手っ取り早い。1日1冊読めていれば、調子がいい。2、3日で1冊読めていれば、まあまあ調子がいい。1週間くらいかかってしまうと、調子がわるい。

もちろん、本によってページ数も読みやすさも違うので、一概には言えないのだが、おおむね「読書量」が僕の体内バロメータを図る度量衡の役割を担っている。もっといえば、「本が読めてない=体調がわるい」と自分を思い込ませる暗示――あるいは呪いの役割を担っているといえるかもしれない。考えものである。

そういう意味で、ここ2、3ヶ月は端的に地獄だった。
中学3年の冬、クラスメートのU君に夏目漱石の『こころ』をなかば無理やり貸し付けられてから、僕の読書人生ははじまったわけであるが、それ以来、人生でもっとも「本を読めていない」期間であった。いやあ、苦しかったな~~。

論より証拠ということで、3月から現在までの読書記録を以下に並べてみよう。各タイトルの末尾に書かれているのは読了日である。注目してほしい。

山本周五郎『日々平安』(新潮文庫)、3月?日
アガサ・クリスティー『火曜クラブ』(クリスティー文庫)、3月12日
綿谷りさ『蹴りたい背中』(河出文庫)、3月12日
レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、3月15日
ドストエフスキー『罪と罰〈上〉』(角川文庫)、3月16日
ドストエフスキー『罪と罰〈下〉』(角川文庫)、3月19日
綾辻行人『十角館の殺人〈新装改訂版〉』(講談社文庫)、3月22日
ジェイン・オースティン『高慢と偏見(上)』( 光文社古典新訳文庫)、3月28日
ジェイン・オースティン『高慢と偏見(下)』( 光文社古典新訳文庫)、3月29日
有栖川有栖『月光ゲーム Yの悲劇'88』(創元推理文庫)、5月?日
有栖川有栖『捜査線上の夕映え』(文藝春秋)、5月3日
亀山郁夫『100分de名著 ドストエフスキー『罪と罰』 2013年12月』、5月10日(NHK出版)
『妖魔の森の家  カー短編全集 2 』(創元推理文庫)、5月12日
内田樹『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』(文春文庫)、5月17日
内田樹『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)、5月21日
アガサ・クリスティー『葬儀を終えて(新訳版)』(クリスティー文庫)、5月23日
高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書)、5月23日

読んどるやん。
ちがう馬鹿、よく見ろ。

3月はまだいい。いつか読もう読もうと思って後回しにしてい歯ごたえのある文学――ドストエフスキーやらオースティンなどに挑みかかって、見事に(?)読破している。意外に楽しめたことも覚えている。問題は、オースティンの『高慢と偏見』を読み終えた後の4月だ。まるっと1ヶ月、1冊も読了していない。

これは僕の人生において、極めて珍しいできごとだ。
本を読みはじめた最初期は、東野圭吾の『白夜行』を読み終えるのにひと夏かかったということもあったが、現在のように標準的な分量の小説ならば1日で読めるくらい「読書慣れ」して以降で、ひと月のあいだ1冊も本を読めないということは、一度もなかった。ただの一度も、である。それくらい本を読むことは僕の生理に組み込まれていた。難しい本を読めないときは、エッセイなどの軽い読み物を手に取る。そうまでして、本を読んできた。なんでそうまでして本を読むのかは知らない。

じゃあ「代わりに映画でも観ていたのか?」と言われれば、そうでもない。ついでに、3月以降の映画の鑑賞記録も並べておこう。

3月3日:『新・男はつらいよ』(1970)
3月3日:『雨月物語』(1953)
3月6日:『西鶴一代女』(1952)
3月5日:『偽れる盛装』(1951)
3月6日:『ウォールフラワー』(2012)
3月7日:『クリムゾン・タイド』(1995)
3月7日:『バルカン超特急』(1938)
3月8日:『女の園』
4月27日:『フォー・クリスマス』
4月27日:『ロジャーラビット』
4月28日:『オッペンハイマー』
4月29日:『オズの魔法使』
5月3日:『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』
5月3日:『ペーパー・ムーン』
5月4日:『エンド・オブ・ホワイトハウス』
5月6日:『塔の上のラプンツェル』
5月7日:『猿の惑星』
5月8日:『続・猿の惑星』
5月9日:『新・猿の惑星』
5月10日:『主戦場』
5月?日:『猿の惑星・征服』
5月21日:『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜)』
5月21日:『最後の猿の惑星』
5月22日:『猿の惑星: 創世記』

こう並べてみると一目瞭然だが、おおむね読書記録とおなじようなリズムを刻んでいる。3月8日に『女の園』を観てから、4月27日の『フォー・クリスマス』まで一気に跳んでいる。こちらは1ヶ月以上のジャンプだ。いやあ、キツかった。

こうなってしまった理由ははっきりしていて、年初から執筆中だった自身3作目の小説が3月から4月にかけて難航してしまったからである。ざっくりした書き方なのは、もはやそのころの記憶が曖昧だからだ。正確にいえば、朝に起きて小説を書いてから会社に行くというバイオリズムが崩れてしまい、朝方生活から夜型生活になし崩し的に移行したことで、あらゆるライフサイクルが二次災害的にぶっ壊れてしまったということだ。

振り返ってみれば、4月は深い闇のなかに迷い込んでしまったようであった。僕はわりと心身共に元気いっぱいのタイプ――あるいは、「元気いっぱいである」と言い聞かせることで自らの蒸気機関を駆動させていくタイプであるのだが、いちどボイラーの火が消えてしまうと、またたび点火させることにこんなに時間がかかるのかと、新鮮な驚きであった。

で、いまはどうなのかといえば、読書・映画鑑賞記録からわかるように、ここ1週間でだいぶ回復した。いや、体調面でいえば、1週間くらい前に引いた風邪をこじらせて、気管支炎だかマイコプラズマ肺炎だかで肺を軽くやっちまっているのだが、精神面は問題なく元気に(?)療養につとめている。

どうやって直したのかといえば、2つの方法をとった。

・朝方生活に戻した(早寝早起きにつとめている)
・難航中の3作目の小説を強引に完結させた。

朝型生活に関しては、普通の勤め人が普通にやっている生活を心がけているだけである。僕の職場は裁量労働制なので、「いつ会社に来てもいいし、いつ帰ってもいい」ので、勢いみんな昼に来て夜から深夜にかけて帰るサイクルになりがちなのだが、それを辞めた。極力9時-5時に近いリズムを採用している。僕の場合は、そっちのほうが絶対に体調がいいことに、齢31にしてようやく気づいた。薄々、朝起きたほうがいちにち調子がいいと思っていた。しかし、いままでは「でも起きられへんからなあ」と夜型生活に甘んじていたが、なんのことはない。朝起きるには夜早く寝ればいいのだ。起きるべき時間にアラームをかけてまだ眠いということは、シンプルに睡眠時間が足りていないのだ。そんな状態で無理やり起床してもいちにち眠いだけであまり意味がない。その時点で起床に失敗している。負けだ。誰と闘っている? 起きようと思っている時間に起きて、眠たくない。すっきりしている。その時間を逆算して床につく――これである。当たり前すぎて鼻毛が出そうだ。そんな当たり前のことに気づくまでに、何年かかっているのだ、この馬鹿は。

ともかく、生活リズムを改善することで読書量と映画の観賞量も戻ってきた。上記のリストの5月中旬以降を見てほしい。心底からほっとした。「もう俺、本読めないのかな」と一時期は本気で心配した。よかったよかった。

3作目の小説の話だ。もうこれは諦めた。そういうことにした。
3月末から5月頭にかけて、秘伝のタレを継ぎ足すイメージでちょこちょこと書き続けていたが、もうタレは腐っていると認めること。腐っているということにしていちど寝かしておくこと。もっと腐るかもしれないが、そうやって仕切り直しをしないと、もうこれは一生完成しないと悟った。そういうことにした。なにより、書くこと自体がずっとゲロ吐いてるみたいにツラい。うげえ。

とはいえ、長編小説を書くうえでいちばんやってはいけないことは、「途中で投げ出す」ことである。映画『正欲』の稲垣吾郎ではないが、投げ出すことは逃げ癖をつけることになる。人生逃げ癖の僕が言うのだから、これはもう間違いがない。だから、寝かすにしたって、諦めるにしたって、形のうえで、完結させねばならない。さもなくば、つぎに進めない。そういうことにした。だから僕は9万字ちょっとある「小説らしきなにか」の末尾に3度エンターキーを押して、最終行を書き込んだ。「その時だった、イデの発動が起こったのは……」と。

ほんとにそれで終わらせようと思ったのだが、実際に魔法の打ち切りワードを書き込んでみて、もうちょっとだけ書き足すことにした。途中の展開をもろもろ飛ばして、いちおう本来予定していたエピローグを付け足した。またいつか、この小説に帰ってくることを期待して。

さて、このnoteもつぎなるステップへ目指すための総括である。自分のための、自分のためだけの苦い苦い総括である。くり返すが、まとめないとつぎに進めない。そういうことにした。だから、ほとんど形式は整えず、思ったことを思った順番で書いた。べつに広く読まれるために書いていないから。そういうことだ。

(終わり)

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