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好きでいられるように


私の中には、相反する2つの感情が存在している。
いや、2つどころじゃないかもしれない……
簡単に仕分けることのできないいくつもの感情がうごめいて、ひしめき合って、絡まって、混ざり合って、同時に存在している。
そしてそれはマーブルケーキのように、切るたびに模様が変わる。


「あなたを大切に扱わない人に優しくする必要はない」

「その人と一緒にいるときの自分を好きになれないなら、そんな関係は断つべき」

「あなたの心身を脅かす人や環境からは離れていいんだよ」

「苦手な人はミュートやブロックで快適に」


などの言葉を、定期的に見聞きする。
うんうんと大きく頷く一方で、うーん?と首を傾げて立ち止まってしまう自分もいる。
自分の心身を守るのは大事なこと。私も、大切な人が悩んでいたらそんな言葉をかけたくなるかもしれない。だけど、自分のこととなると…… マーブル模様が、ぐるぐるする。

変わりたい、抜け出したい。そうすればきっと楽に生きられる。そう思っているけれど、意気地なしな自分は、一生このままかもしれない。
ずっとマーブル模様のまま、ぐるぐる立ち止まっている。


ふと、「自分の人生を生きたい」と思ってしまうことがある。でも、「自分の人生」ってなんだろう?何を以てして「自分の人生」と言えるのだろう……。
むずかしい。けれどひとつ言えるのは、現状になにかしら不満があるときに浮かぶ思考なんだろうなということ。

子どもの頃はそれなりに、好きなように生きていた気がする。
自分のしたいことやなりたいものがわりとはっきりとしていて、親にあれをしな、これをしなと言われた記憶がほとんどない。
頑張った分、それなりに結果がついてくることも多かった。もちろんうまくいかないこともあったけれど、特に大きな不満もなく、納得していた。
人間関係でうまくいかなかったり家族の不破で落ち込むこともあったけれど、心の真ん中では「私は私、だから大丈夫」そう思えていた。
しあわせ?と訊かれたら、迷わず「うん!」と頷けていた。

いつからだろう。
自分で選んできたはずなのに、誰かや何かのせいにしたくなるようになったのは。
そんな自分が情けなく、落ち込むようになったのは。



「メイクで顔の赤みを隠してほしい」

ある日、家族に頼まれた。
メイク?わたしが?と、一瞬戸惑う。

家族の顔には、炎症により広範囲で赤くなっている部分がある。とあるイベントで人に会うため、その赤みをメイクで隠したいとのことだった。

私でいいのかな……?
自分自身へのメイクは未だに正解が分からないでいるし、パーソナルカラーとかもよく分かっていない。
就職や結婚式参列などのタイミングで、分からないなりにちゃんとしなきゃ……と練習してはここ10年ほどかけて少〜しずつアップデートしてきたものの、まだまだ知識も技術も乏しい。
普段はそんなにがっつりメイクする方ではないし、お金もあまりかけられないから道具も安いものしか持っていない。
そんな自分が他人にメイクを施すなんて、考えたこともなかった。

だけど、人に会うときに少しでもいい状態でいたいって気持ちは分かるし、頼ってもらったからには私なりに精一杯メイクさせてもらうことにした。


ちなみに普段の自身のメイクはというと……
保湿→日焼け止め→カラーコントロール下地→フェイスパウダーという簡素なもの。
コンシーラーやファンデーションは省略している(決してファンデがいらないくらいもとの肌がきれいというわけではないけれど)
あとは眉を少し描き足したり、目尻にアイラインちょこっと引いたり(最近覚えた)
アイシャドウは迷子。マスカラは苦手なので省略…… そんな感じ。
(あ、リップ書くの忘れてた。ここ数年のマスク生活で色つきリップとチークは省略することも多かった。マスクに色がついちゃうから)

今回家族には、ベースメイク(肌をきれいに整えるメイク)を中心にやってみる。


まずは保湿。
炎症で皮膚がめくれてサカサカになっているところがあるので、きっとこのままだと下地やファンデーションが浮いてしまう。
乳液でしっかり保湿して、余分な油分をティッシュオフ。

次に下地。
ファンデーションのノリや持ちをよくして、肌をトーンアップさせる役割。らしい。
今はブルータイプのを使っているけれど、これが合っているのかは分かっていない。でもこれしかないのでこれでいく。
下地を指で家族の顔にのばしていると、なんとも不思議な感覚になった。当たり前だけれど、普段触れている自分の顔とは凹凸がちがう。他人の顔にまじまじと触れることってあんまりなかったかもしれない……。

つづいてコンシーラー。
普段はあまり使わないけれど、今回は赤み(炎症)を隠すのが目的なので使ってみる。
赤みの強いところにちょんちょんとのせて、指の腹でポンポン叩いてのばしながら、まわりと馴染ませていく。
炎症に触れるのはなんだか躊躇いもあったし、いろいろ塗るのは肌にも良くないのかもしれないけれど、今回は応急処置なのでと割り切る。実際、だいぶ赤みは隠せた。

ファンデーション…… は迷ったけれど使ってみる。
あんまり塗りすぎると不自然になるかもしれないから、薄めに。ここで再びティッシュオフ。

仕上げにフェイスパウダー。
パフでぱふぱふとはたいていく。全体をなめらかに整えて、さらっとさせてくれる感じがする。

最後に、化粧崩れ防止でメイクキープミストを全体にシュー!と吹きかける。バリアを張るようなイメージ。
これで一応、完成。どうだろう?


鏡を見た家族は「全然違うな」と驚いている。
ご満足いただけたようで何より。


夜になって、家族がイベントから帰ってきた。
「楽しかった〜!」と明るい表情の家族を見て、「よかったね」と心から思った。
それなりに暑い場所で汗もかいてきたはずだけれど、あまりメイク崩れもなく、帰宅後もしっかり赤みを隠せている。我ながら「やるじゃん」とうれしくなった。
(自分へのメイクは、いつも夕方にはしてるのかしてないのか分からなくなるけれど)


でも、うれしい気持ちとは裏腹に「もやもや」が顔を出す。出た、マーブル模様だ。
私は、本当は、家族に対して負の感情を抱いている。
悲しみ、怒り、苦痛、恐怖、疑念、諦めなどなど……
そういうものと「うれしい」「よかったね」が混ざり合って、そんな自分が自分でもわけ分からなくなる。私はなんなんだ。一体どうしたいんだ。


メイクや髪型のビフォーアフター動画が好きで、たまに見ることがある。
イメチェンしたい、自信を持てるようになりたい、なりたい自分になってみたい、結婚式や就職のため……などなど。お客さんのニーズに合わせてメイクやカット、セットをしていく様子はまるで魔法のよう。
お客さんのアフターの表情がぱっと明るく自信に満ちているのが素敵だなぁと、いつも思う。

今までは見るだけだったけれど、家族にメイクをしてみて、施す側のよろこびみたいなものを感じた。自分も魔法使いになった気分というか。
例えるなら、シンデレラを舞踏会に送り出すために魔法をかけるフェアリーゴッドマザー(ドレスやガラスの靴、かぼちゃの馬車などを用意した魔法使い)の気分?

家族が自信をもって出かけるお手伝いができたならよかったって、心から思った。あと、単純に楽しかった。

……それで、いいのかもしれない。
心と頭の中のマーブル模様はずっとぐるぐるしつづけている。
だけどあの日、あの瞬間。私の中のフェアリーゴッドマザーは、目の前の人に手を差し伸べることを選んだ。ただそれだけ。
自分のメイク技術への不安はあったけれど、力になりたいという気持ちに迷いはなかった。

相手が誰とか、過去に何があったとか関係ない。
頼られたならなるべく応えたいし、困っているなら力になりたいし、ピンチのときは協力し合う。
ただそれだけ。そして、そんな自分が私は好き。だからそうしたのだろうし、これからもきっとそうする。


日々、何気なく自分でいろんなことを選んでいる。
髪型やメイク、服やアクセサリーひとつとっても、お気に入りのインテリアや調理器具にしても。
好きになる本や音楽、語ることば、語らないことば、食べるもの、休日の過ごし方に至るまで、たくさんの選択肢の中から選びとって生きている。そうやって今の自分がいるのだと思う。

いろんな事情で妥協せざるを得ないことも多いし、すべてが自分だけの思い描いた通りにいくわけでもない。1人で生きていないなら、尚のこと。
それでも、より良い方、好きだと思える方、しっくりくるものをなるべく選んでいきたい。

たとえば、部屋のほんの一部でも自分の「好き」でかためたスペースがあると安心する。
心の中も同じかもしれない。家族と一緒にいて、自分のことを嫌いになりそうなときもある。自分の中にこんな嫌な自分がいたのかと、落ち込むこともある。だけど、「自分が好きでいられる自分」のスペースは、失くさずもっていたい。

誰かや何かのせいにばかりはしたくない。かと言って、必要以上に自分を責めたり背負いすぎることもない。それが私にとって、「自分の人生を生きる」という感覚なのかも。

自分で選ぶと、なんだか愛着がわいてくるし、大切にしたくなる。
「自分の人生を生きたい」というのは、「愛着のある人生を送りたい」「自分を大切にしたい」ということなのかもしれない。

そこにたどり着くまで、きっとたくさん悩んだり、迷ったり、間違ったりする。とてつもなく時間がかかるかもしれない。
それでも、そうやって自分で選んだものなら少しは胸を張れる気がする。好きになれる気がする。

これから先、自分がどんな選択をしてどんな未来にいるのか分からない。心の中には、どこまでもマーブル模様が広がっている。
だけど、どんな選択をしたとしても、選んだ方を正解にしていけたらと思う。
そのために悩んで、迷って、間違えたことも、かかった時間も、きっと無駄にならない。というか、「無駄じゃなかった」って、未来で言える自分でいたいな。
私には、それができると期待している。

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