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夢と現実の間(あわい)


雑音。
居間で家族が談笑している。
飛び交う言葉、テレビの音量、そのひとつひとつに落ち着かない。せめてもう少し静かだったら……。
そう思いつつもテレビの音量を下げてもいいですかという一言が言えなくて、そっとその場を離れ2階の自室に逃げ込んだ。
無愛想な子だと思われても構わない。自分の心を守ることの方が大事だ。今は、何も見たくないし聞きたくないから。

暗く静かな部屋の床に、泥のように横たわる。
そのままずんずんと沈んで、床に自分の形の穴が空くんじゃないかと思えてくるほどに身を委ねる。
誰にも言えない苦しみや、うまく吐き出せなかった気持ちは澱みたいに心の底にたまってく。
底に溜まってるだけだから、何かの拍子に掻き回されたらまた浮かんできちゃうけど。
きれいな上澄みだけ掬いとって言葉にしたとして、それだって上辺じゃなく本心だから、届く人には届くと信じてる。信じてるけど。
ああ、全部言えたら楽になるのかなぁ。なんて思ってはみるけれど、きっと相応に傷付くし、関係ない誰かまで傷付けてしまうんだろうな。
今は、今はまだ耐えられそうにない。

横たわったまま、床を撫でる。
寝返りをうって、天井を目でなぞる。また寝返りをうって身体を沈める。
次第に、世界から自分だけ切り離されていくような心地よさを覚える。
なんだか、疲れてしまったんだ。
テレビでも、ネットでも、リアルでも、人のいろんな感情が渦巻いて。
自分には直接関係ないはずのことにまで、心を掻き乱されるんだ。
このまま床ごとどこか遠くへ流れ着いて、穏やかに過ごしたい。
もうだれも自分を構う人もいなくなって、その代わりに心を掻き乱されることもない。そんな世界に。


ふいに、チャイムの音が波紋のように部屋に響いた。
はっとして目を覚ます。
ほんの束の間、微睡んでいたようだ。
のっそりと身体を起こして、玄関へ向かう。モニターも確認せず不用心に扉を開けると、友人が立っていた。

 どうしたのこんな夜遅くに。
 さっきそこでりんごを買ったの。一緒に食べようと思って。りんご、好きだったよね?

友人が持ってきてくれた紅くて大きなりんごの皮をするすると剥いて、お皿に並べる。
いただきます。そう言って二人同時にりんごを頬張った。
おいしい。足りなかった何かが満たされていくような気持ちになる。そうか、自分に足りなかったのはビタミンなのかもしれない。
そのまま、友人としばし語らった。
不思議だなぁ。さっきまで、誰とも関わりたくないと思っていたのに。友人と一緒にりんごを食べているこの瞬間はなんて心地いいんだろう。
このまま、世界から二人がいる空間だけ切り離されていくような気がした。


ふいにチャイムの音が波紋のように部屋に響いた。
はっとして目を覚ます。
夢だった……?一体どこから夢だった?
そこにはりんごも友人の姿もなく、ただ部屋の床に一人で横たわっていた。
そもそも一人暮らしの自分には家族の談笑もあり得ないし、ワンルームのこの部屋には1階も2階も存在しない。いや、存在はするけれど。顔も知らない他人が住んでいるだけだ。
カーテンの隙間からわずかに光が差し込んだ。
いま何時だろう?

二度目のチャイムの音に急かされ、モニターも確認せず不用心に玄関の扉を開けると訪問販売らしい人物が立っていた。

 りんご、いかがでしょうか。
紅くてまんまるなりんごを箱いっぱいに抱えてにっこり微笑んでいる。
 おいくらですか。
 ひとつ、100円です。
 ふたつ、ください。

紅くて大きなりんごの皮をするすると剥いてお皿に並べ、いただきます。と、間髪入れずに頬張った。
おいしい。足りなかった何かが満たされていくような気持ちになる。そうか、自分に足りなかったのは……こういうことだったんだ。

りんご、もっと買えばよかったかなぁ。
また、来てくれるかなぁ。

そんな、自分の心の些細な変化がうれしかった。
たまに、理屈じゃ説明できないような不思議なことが起こるんだ。
それはまるで、物語の方からこちらへ寄ってきてくれるような感覚。
信じたこと、間違っていなかったみたい。大丈夫、そのまま書き進めていいよと言われているような気がした。

よし!と自分にだけ聴こえる気合を入れる。
そうしてりんごの最後のひとくちを頬張ると、書きかけの原稿に向かい筆をとった。

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