小川康弘劇場「となりが床屋」
小川康弘先生の連載がはじまりました!第一弾は、隣家に床屋さんをもつとある高校生男子のお話です。(扉絵:ルノアール兄弟)
「となりが床屋」
たぶん俺、近いうち彼女ができる。向こうもきっと俺のことが好きだ。だって俺と話していると楽しそうだし、他の男子と話している時も楽しそうなんだけど、なんてったって今日、デートの約束をしたのだ。一学期の期末テストが終わったら遊びに行こうとなったのだ。7月最初の日曜日、俺の彼女いない歴に終止符が打たれるだろう。人生のターニングポイントまでもう一ヶ月切っている。試験が終わった直後だから開放感も最高潮で、何かが起こりかねないことこのうえない。これは男女交際においてくすぶっている連中から頭ひとつ抜きん出たと言っていい。俺は来るべきその日に告ろうと決めている。先立って試験前は一緒に勉強して交流を深め、テストが終わったら初デートし、恋人同士になって夏休みへ突入するという計算だ。
やばい、ニヤニヤしちゃいそう。あー、ニヤニヤしちゃいそう。ダメだ、これ絶対ニヤニヤしちゃう。ヤバい、電車の中なのに、ああっ、ああっ、ニヤニヤしちゃいそう! ニヤニヤしちゃいそう! まずい。あーもう我慢できない! あーっ、あーっ、あーっ。……ああ、ニヤニヤしちゃった。あーニヤニヤしちゃった。もういい。今日は無理だ。もうニヤニヤしよう。ニヤニヤしとこう。ということで俺は我慢せずにずっとニヤニヤしていることにした。
俺は電車を降りるとニヤニヤしながら自転車置き場へ向かった。早く明日にならないかな。あの子、俺が髪を切ったことに気づいてくれるかな。学校帰りに美容院で今風のおしゃれな感じに仕立ててもらってきた。似合うねとかかっこいいじゃんとか言われたいなあ。たぶん言うだろうなあ。なにしろデートの約束をした仲なんだからな。どこ行こうかな。まだ1ヶ月近く先の話だけど今から楽しみでしょうがない。ニヤニヤしながら自転車を家路へと走らせる俺の頭の中はあの子でいっぱいだった。だからだろうか、まったく無警戒になっていた。俺は家にたどり着く直前で我に帰った。隣に住むおじさん、山崎さんが自宅兼店舗から出てきた。
「おう。おかえり、ゆうちゃん」
山崎のおじさんはバーバー山崎の店主だ。俺は驚きのあまり急ブレーキをかけ、立ち止まった。
「あっ……こ、こんばんは」
あれだけどうにもできなかったニヤニヤがいつの間にか収まっている。俺は動揺しながらもなるたけ明るく挨拶を返した。自転車を降り、歩きながら山崎のおじさんの前を通る。やばい、気づかれるだろうか。気づかないでくれ。あれには気づかないでくれ。
「お、ゆうちゃん、髪、切ったんだ?」
やっぱり気づかれた。俺は黙ってしまった。すっとぼけようか。いや、そんなことは無理だ。
「ああ……はい、ちょっと、はい」
「ふーん、そっか」
「はい」
「うん、そっか」
「はい」
「なるほど」
2回のそっかと締めのなるほどに胸が痛む。なるほどってなんだ。変な間が空き、耐え難いほどの微妙な空気が流れる。
「あー、いいじゃん、似合ってんじゃん」
「あ、ほんとっすか?」
「うん、似合ってるよ。おじさん、いいと思うよ」
「ああ、ありがとうございます。はは。それじゃ失礼します」
愛想笑いでごまかし、逃げるように家の中に入った。
山崎のおじさんに会うのは本当気まずい。隣に住んでいるにも関わらず、バーバー山崎を全然利用していないからだ。小さい頃はここで切っていた。俺の初めての床屋がここだった。髪を切らないのに店に入って勝手に漫画を読んだり、山崎のおじさんに遊んでもらったりと居心地のいい場所だったが、中学生になると美容院へ行きだす友達の影響もあり、だんだんここで切りたくなくなっていった。なんせダサく仕上がるのだ。バーバー山崎で切っていること自体もダサく感じられてならなかった。それでもお隣だし俺もそんなにむげにはできず、気になるヘアスタイルが載っている雑誌とか持って行ってオーダーしたんだけど全然ダメだった。何回かチャンスを与えたんだ。けどダメだったのだ。角刈りや刈り上げ、スポーツ刈りをやらせたらピカイチなんだけど、肝心なジャンルがダメだった。中3の初夏、ついに俺はバーバー山崎を卒業した。友達が通っている美容院を教えてもらい、そこで髪を切った。ちょうど1年前の今頃だった。
あの日もタイミングが悪く、帰りに山崎のおじさんと出くわした。山崎のおじさんはすぐに俺が別の店で髪を切ったことに気づき、俺を呆然と見つめた。無理もない。10年近くも自分が髪を切ってきた客が、自分以外の人間に髪を切ってもらってきたのだ。呆然と俺を見つめる山崎のおじさんを見て、俺も呆然となった。そのあと、山崎のおじさんは微笑んだ。別に全然気にしてないよと言わんばかりだったが、ひきつっていてとても悲しそうな笑顔だった。俺は山崎のおじさんを裏切った気がして、しばらく罪悪感に苦しんだ。
それからというもの、本当に気まずい。あの日以来、俺は美容院で髪を切ってきた帰りはおじさんが店の前に立っていないか細心の注意を払うようになった。少し離れた場所の影からこっそり見つめ、山崎のおじさんがいないことを確認後、そそくさとバーバー山崎の前を通過。山崎のおじさんが立っていた場合はカバンに忍ばせたキャップをかぶり、軽く挨拶をしてそそくさと通り過ぎた。髪を切って2~3週間くらいは他で切ってきたことがバレるのでキャップを常備した。家を出る時も同様だ。かなり神経を使い、気苦労が絶えない。そんなに大変なら山崎のおじさんの店でまた髪を切ればいい話だと思うかもしれないがそれは絶対に嫌だった。なんで金を払ってダサくならなければならないんだ。たまにバーバー山崎を通りがけにのぞくと老人か老人に片足突っこんだおっさんやおばさんしかいない。客が誰もいない時もあって、山崎のおじさんが暇そうにテレビを見たり雑誌や新聞を読んでいる姿を見かける。よくやっていけるよなあ。奥さんも昔からスーパーでパート勤めしてるしなあ。まあテナント料がかからないから儲けが少なくても大丈夫なのか。
潰れるか引っ越すかしてくんねえかなとマジで思っている。おじさんの二番目の息子の山ちゃんと俺は小中と同級生で仲もよかったが、バーバー山崎で髪を切らなくなってから次第に疎遠になっていった。せつない。高校は別だが、たまに山ちゃんとも出くわす。けど、俺も山ちゃんも無視している。友達を一人失った。すべて隣にバーバー山崎があるせいだ。山ちゃんは高校でも野球を続けているようで相変わらず坊主頭が施されている。山崎のおじさんお得意のヘアスタイルだ。きっと今もお父さんに刈ってもらっているのだろう。
といった感じで俺はあの日を境に、髪を切ったことを絶対におじさんにバレないようにしていたのだが、今日、とうとう恐れていたことが起こってしまった。あの子のことを考えていたら帰宅時のおじさんへの警戒をすっかり忘れていた。
その日の夜、我が家の食卓では俺の髪型が話題にのぼった。
「今日さ、会っちゃったんだよ、山崎のおじさんに。俺さ、うっかり帽子かぶるの忘れて……髪切りたての状態見られちゃった」
みんなの箸が止まる。中でも近所付き合いにおける我が家の窓口である母の食いつきが半端なかった。
「それで? どうだったの?」
「バレたよ。『髪切ったんだ?』って。『似合ってんじゃん』って」
「それで、あんた何て言ったの?」
「一応、お礼言っといた。おじさん、顔は笑ってたけど悔しそうだったなー」
「あらそう。わかった、お母さんが今度会った時うまいこと言っておくから」
「うん」
ひと段落つき、再びみんなの箸が動き出す。父は「堂々としてりゃあいいんだよ」と言っていたが、それがなかなか難しい。父はバーバー山崎で切っておらず、山崎のおじさんにも変に気を遣わない。父親として息子の手本となる生き方を示してくれている。
髪型はおおむね好評で、明日のあの子の反応への手応えを感じた。父は冗談混じりで「まったく、チャラチャラしやがって」と冷やかしてきた。家族の中で唯一、小6の弟だけが不機嫌だった。
「いいよな、お兄ちゃんは美容院で髪切れて」
弟は我が家でただひとり、バーバー山崎で髪を切っている。さすがにうちから誰もあそこで切らないわけにはいかず、弟が近所付き合いの生贄としてバーバー山崎に差し出されている。おととい切ったばかりの弟は、横がダサい感じに刈り上がっていた。不憫だ。
「僕も美容院で切りたいよ」
「わがまま言わないの」と母。
「お前も大変だな」と父。
「ほら、俺のおかずやるから」と俺。弟の気持ちは痛いほどわかる。同じ道を歩んでいたあの頃とだぶる。
「ずるいよ、僕ばっか……」
弟もバーバー山崎で切ることのダサさを感じ始め、嫌気がさしてきていた。いずれ弟が大きくなって思春期を迎えたら確実に行かなくなるだろう。あと数年もしないうちに我が家から一人も利用者がいなくなる。そしたら誰を献上したらいいんだ。床屋ということもあり、母は女性なので免除されていて何のためらいもなくバーバー山崎を利用しない。いい気なもんだ。父が適任だとは思うのだが、山崎のおじさんを嫌いなのだという。
「嫌だよ。お父さん、山崎さんダメなんだよ。あの人いろいろ聞いてきてうるせえんだ。給料はいくらだのボーナスは何ヶ月分出たんだだの。いっつも金の話ばっかでさ、話しててもちっともおもしろくねえんだ」
「そうなんだよ。おじさん全然おもしろい話してくんないんだよ。この間もね、僕の髪を切りながらしゃべってたのはほとんど近所への不満だった。みんな全然髪切りに来ないって。おじさん、うちにも文句言ってたよ。4人もいるのに来るのは1人だけか、って。冗談ぽく言ってたけど、あれたぶん本音だと思うよ」
父はビールをグビリと飲み、グラスを置いた。テーブルに着地した音には怒気が滲んでいた。
「本当ムカつくなあ。こっちは大事な息子を犠牲にしてんだぞ。感謝の気持ちとかねえのかな」
「そうよねえ。ちゃんとご近所としての礼儀は果たしているつもりだわ」
「あと、いろんなこと聞かれたよ。お父さんやお兄ちゃんはどこで髪を切ってるのかとか、どのくらいのペースで切ってるのかとか」
「それでなんて言ったんだ?」
俺は自分の情報が山崎のおじさんに漏れたくないのでついマジになって聞いた。弟は得意気な表情を浮かべた。
「安心してお兄ちゃん。絶対に言えませんって言っておいたから」
一瞬、唖然とさせていただいた。
「絶対に山崎さんには言うなって言われてます、って」
「お前、そんな言い方したらこっちが向こうに距離置いてるのがバレるじゃねえかよ!」
「だってお兄ちゃん、山崎のおじさんには絶対に言うなって言ってたじゃんか!」
弟はなんで怒られているのかわかっていないようだ。お父さんやお兄ちゃんのために黙っておいたのになぜ、といった顔をしている。
「おめえ本当バカだな!」
俺は思わず箸を食卓に叩きつけた。当初は俺だけが頭を抱えていたが、そこに母も加わった。
「もー。山崎さんちとうちの関係が悪くなるわね。困ったわー」
隣が床屋というだけでちょっとしたご近所トラブルだ。
翌朝、今日もあの子のいる学校へ行くため、家の玄関を颯爽と、かつ、こっそりと飛び出した。庭に停めてある自転車にまたがろうとした時だった。隣の玄関が開いた。山崎のおじさんが出てきて、あくびをしながら空へ向かって背伸びをした。俺はそばに駐車してある父の車に身を潜めた。山崎のおじさんがいなくなるのを待っていようとしたら、山崎のおじさんはラジオ体操みたいな体操を始めた。
「マジかよ……遅刻しちゃうじゃねえかよ」
会いたくない一心で忍耐強く辛抱し、やっと終わったと思ったら今度はポスターみたいな物を丸めたやつをゴルフクラブのように持ち、スイングを始めた。
「ふざけんなよっ。早くどっか行けよ」
携帯電話で時刻を確認すると、もう限界だった。俺はさも今出てきたばかりのような感じで自転車を敷地から出した。山崎のおじさんが物音でこっちに気づき、丸めた紙を構えながら話しかけてきた。
「お。おはよう、ゆうちゃん」
「あ、おはようございます」
山崎のおじさんはそのまま素振りを続ける。
「いい天気だな」
「はい」
「たまにはうちの子と遊んでやってくれよ」
「はい」
「今日もキマってるな」
「え?」
そう言うと山崎のおじさんはあごをしゃくった。
「髪」
「あ、ああ。はは。あざーっす。はは」
なんとも言えない空気が流れる。
「あ、やっべえ、遅刻しちゃう。それじゃ行ってきます」
「おう、行ってらっしゃい」
俺は会話を最小限に済ませ、駅へと自転車を走らせた。チラッと振り返ると、山崎のおじさんは店の入り口に何かを貼っているようだった。何かキャンペーンでもやるのだろうか。絶対行かないけど。
タダでも行かねえ。
今日の帰りもニヤけそうだった。あの子からの評価は上々だったのだ。かっこいいじゃんをいただいた。髪を切ったことを気づいてもらえるのは男でも嬉しい。そのうえ褒められ、しかも好きな子からだとなおのことだ。クラスの女子も何人か褒めてくれた。やっぱり美容院だな。バーバー山崎で切ってたらこうはいかない。あそこで散髪することは青春を棒に振るようなもんだ。ああいうとこは髪型に頓着のない、長さしか気にしないじじいとばばあに任せよう。
今日は昨日の反省も踏まえ、ちゃんと影から山崎のおじさんをチェックした。髪を切ったのはバレてしまっているからもうそれはいいんだけど、会うとなんか面倒くさいし面倒くさくなる可能性が高いので極力会いたくない。曲がり角からそーっと見る。よし、今日はいない。今だ!
俺はペダルに力を入れてラストスパートを切った。バーバー山崎には目もくれずに通過し、無事帰宅した。部屋へ入ってベッドに寝転がってあの子のことを考えた。デートはどこに行こうか。手をつなぐべきかどうなのか。当日までまだ1ヶ月近くもある。髪も伸びるだろうな。どうするかな。だいたいひと月半くらいに一度切っているので、いつものペースなら来月の下旬あたりに髪を切る予定だ。でもあの子のためになるたけかっこいい状態に持っていきたい。
「よし」
俺は起き上がると携帯電話を手に取った。通常より早くなるけど来月頭のデートを成功させるため、デート前日に美容院を予約しよう。昨日切ったばかりで電話しずらいけど、もし希望日の予約がいっぱいになってしまったら困る。俺は行きつけの美容院に電話をかけた。
あぶない。いま予約してよかった。超混んでてぎりぎり予約取れた。今日はついてる。あの子に髪型褒められたし、他の女子も好感触だったし、運良く美容院の予約も取れたし、いい日だった。帰りに山崎のおじさんに会わなかったしな。さあメシメシ。腹減った。
今夜の食卓もバーバー山崎が話題にあがった。切り出したのは母だった。
「そうそう、今日山崎さんに会ったんだけどね、開店20周年キャンペーン始めたんだって」
ああそういえば朝、なんか貼ってたな。
「今月末の日曜日がちょうどオープンした日なんだって」
お、あの子とデート1週間前じゃねえか。
「今月は20%オフらしいわよ。どうせならもう少し早く始めてくれたらよかったのにねえ」
母が弟の頭を撫でながら悔しそうにつぶやいた。
「こんな変な頭に正規の値段払って……。そうだゆうちゃん、昨日山崎さんとなんか気まずくなっちゃったんでしょ? お母さん、山崎さんにフォロー入れといたから」
「ああ、ありがとう」
「お母さん、うまいこと言っといたから」
「うん、サンキュー」
近所づきあいも大変だな。親に感謝だ。
「うーん、でもちょっとまずかったかもなあ」
母は気になる一言をこぼした。ちらっと見ると、次から次へおかずを口に入れ、噛んでは飲み込みまたおかずに手を伸ばし、その続きを話しそうにない。俺は口の中の物をたいして噛みもしないまま急いで飲み込んだ。
「え? どうしたの?」
「なにが?」
「いや、あの、まずかったかもって言ってたから」
「うん、まあでも大丈夫かな」
「いやいや。え、何があったの?」
食い下がると母はようやく箸を止め、口の中を空にした。
「山崎さんと話してたらね、昨日ゆうちゃんに会いましたよって言うの。大人っぽくなりましたねえって。そしたらゆうちゃんの髪型に触れてきてね、今風の髪型してたなあって。昔はこんなにちっちゃかったのになあって。昔はよく髪切ったもんだなあって懐かしがり始めたの。でね、なんかなかなか終わらないの。で、お母さん、耐え切れなくなっちゃってねえ。言っちゃったのよ、思わず」
「……なんて?」
「んー、なんか、今度山崎さんのとこに切りに行くって言ってましたよ、って」
え? え? ええ!?
「ふざけんなよ! 全然うまいこと言ってねえじゃんかよ。なんてこと言ってくれてんだよ!」
「だって……ああ言うしかなかったのよ」
「行くわけねえだろ!?」
「だからね、ゆうちゃん、山崎さんに会ったらうまいこと言っておいてね。近々行きますんで、とか」
「俺がうまいこと言っておかなきゃいけなくなってんじゃねえかよ」
「ごめんねえ」
「もー、ここからどううまいこと言えばいいんだよ。うまく言いようがねえよう。もう逃げようがない状況じゃねえかよ! 俺嫌だかんね、あそこで切るの」
「しょうがないでしょ、向こうがあんたのことしきりに気にしてたんだから。つい言っちゃったのよ」
「あーあマジかよもう。俺、美容院予約しちゃったよ」
「また? この間行ったばっかでしょ?」
「色々あんだよ」
「20%オフのキャンペーンは今月末までなのよ」
「行かねえよ!」
今日はいい日だと思ったのに。明日はいい日であってくれ。そう願いながら残りのメシを食べた。
翌朝、早速悪いことが起きる。昨日の朝に引き続き、山崎のおじさんと出くわしたのだ。おとといの帰宅時も入れたらもう三日連続で遭遇してしまった。俺は美容院帰り直後を見られたおとといよりも、今日のほうが会いたくなかった。馬鹿な母親が、今度バーバー山崎に俺が行くみたいなことを言ってしまっているからだ。
「おはよう、ゆうちゃん」
「おはようございます」
おじさんはなんだか機嫌がいい。
「今月の末に20周年を迎えるからさ、ちょっと遅くなっちゃったんだけど記念月間としてキャンペーンを始めたんだ」
「へー」
興味がないので俺は知らないフリをした。すると山崎のおじさんは、
「あ、お母さんから聞いてない?」
と、きょとんとした。本当ムカつく顔だなあ。俺がこの人の息子だったらもっと荒れた反抗期だったに違いない。
「ああ、そういえば、聞いたかも」
「昨日、お母さんと井戸端会議してね。あ、おじさんもお母さんから聞いてるから」
「はい?」
「ほら、あれ。あれだよ。ゆうちゃん、近々うちに来てくれるらしいじゃん」
俺は否定も肯定もできなかった。否定したかったができず、肯定しないことによってせめてもの反抗を示すので精一杯だった。山崎のおじさんは、早速キャンペーンの効果があったなとつぶやいた。
「今月末までキャンペーンやってるから。20%オフ。ふふふ」
たかだが2割引きくらいで山崎のおじさんは持ってけ泥棒みたいな感じで俺のケツを軽く叩いた。
「今月は定休日も返上して営業するからな」
むしろもっと休んでくんねえかなと思いながら愛想笑いをする。誰かこの床屋を放火してくれないかな。二度と営業再開できないくらいに。
「いつ頃来る?」
すげえぐいぐい来やがる。
「えーと、そうっすねえ。まあでも、この間切ったばっかだしなあ」
「来月んなったら正規の値段になっちゃうぞ」
「うーん」
「いやー、久しぶりだなあ、ゆうちゃんの髪切るの」
全然引き下がならない。なんなんだこいつマジで。この問題を解決するにはどうしたらいいんだ。もうあれしか思いつかない。この人を殺すしかない。しかし殺すのはなあ。殺す以外の方法で何かいいアイデアはないだろうか。今すぐには思いつかず、一刻も早くこの場を去るぐらいしか俺にできることはなかった。
「じゃあ俺、そろそろ」
「ああ、引き止めちゃって悪かったな。行ってらっしゃい」
山崎のおじさんに見送られ、俺はお辞儀をして自転車にまたがった。
俺の最近の生きる活力はあの子の存在だけだった。俺の席は後ろのほうであの子は前の方なので、授業中ちらちらあの子を見る。うしろ姿しか見えないけど、ちらちら見ていることがバレないのがまたいい。おかげさまで学校は楽しいが、家に帰るのが憂鬱だった。
ここのとこ山崎のおじさんは、俺が帰る時にいっつも店の前に立っている。住宅街なのでそれほど人通りもあるわけではないのに、律儀にビラ配りをしているのだ。俺が帰る時間帯にたまたまお客がいないのか、かなり前から配っているのか、とにかく店先に立ってビラ配りしている。山崎のおじさんがいなくなるのをずっと待っているわけにもいかないので玉砕覚悟で俺は山崎のおじさんの前を通り過ぎた。山崎のおじさんは俺にもビラを渡し、「よろしくな! 今月中までだから!」と、その後も会うたんびにチラシを渡すのであった。
俺は家の近くまで来ると母に連絡をし、バーバー山崎に電話をかけてもらうようにした。おじさんが電話を出るために店の中に戻ったすきに家までダッシュする作戦だ。物陰から山崎のおじさんの姿を確認すると、母にメールを送る。
「もうすぐ家」と俺。
「了解」と母。
母からの返信を受けると、俺は山崎のおじさんの様子を伺った。母が電話したのだろう、おじさんは電話が鳴っているのに気づき、ビラ配りをいったんやめて店の中へ戻っていく。よし、今だ!
こうして俺は無事姿を見られずにバーバー山崎の前を通りすぎ、帰宅に成功。母は山崎のおじさんが電話に出るとしばらく無言を貫いて時間を稼ぎ、俺が玄関に入るのを待って切る。
ここ1週間はそんな日々が続いた。山崎のおじさんには少々気の毒だが仕方ない。母からの無言電話を取りに健気に店内へ戻る山崎のおじさんを見ると時折胸が痛んだが、おかげで学校帰りに接触することは避けられた。だが、朝はなかなかそうもいなかない。週明け、あの子とのデートまで約2週間となった日の朝、久々におじさんに出くわした。
「おう、ゆうちゃん。今日もいい天気だな」
「おはようございます。いい天気っすね」
「お、だいぶ髪伸びたな」
「そう、っすかね?」
「うん」
相変わらずチェックが厳しい。そういうおじさんはちょっと日に焼けたなあ。もしかして日中、ビラを配っている時間が長いのか? いや、わからない。俺が学校に行っている間は意外と繁盛しているかもしれない。キャンペーンで人がいっぱい来てたら俺への執着もなくなるはずだ。おじさんが以前に比べて肌が黒くなっているのが気になるけど、ちょっと探りを入れてみよう。
「でもあれっすよね、20周年キャンペーンで結構忙しいんじゃないっすか?」
「いやあ全然だよ。ほら、駅前に新しい美容院がオープンしただろ? あそこに持っていかれちゃってるっぽいんだよなあ」
マジかよ。客来てないのかよ。そういえば確かに美容院できてたな。新規は半額みたいなポスターが貼ってあったし、実際にぎわっていた。かたやバーバー山崎は技術の乏しい床屋なうえ立地も良くないくせに20%オフぽっちだ。
「それにさ、最近いたずら電話が多いんだよ」
俺はできるだけきょとんとした。
「マジっすか?」
「うん。なんか決まって夕方過ぎにかかってくるんだよ。こっちもさ、お客からの電話だと思って取るじゃん。そしたらなーんにも言わないの。無言なんだよ」
すいません、それうちの母ちゃんです。
「そんなのが毎日だもん。勘弁して欲しいよ本当」
「うわー、大変ですねえ」
「困っちゃうんだよなあ。たぶんさ、駅前の新しくできた美容院の奴らじゃないかって思ってるんだ。ライバルへの嫌がらせだよ、嫌がらせ」
きっと向こうはバーバー山崎なんか眼中にないと思う。それに電話しているのはうちの母親だ。そんな本音と事実は口に出せないので、山崎のおじさんに同情するフリをしてやり過ごす。
「あいつら、仕事帰りや学校帰りのお客が来る時間帯を狙ってんだよ」
「なるほど。きったねえ奴らだなー」
「まったくだよ。俺を電話に出させてさ、店の前を通る人にビラ配りさせないんだよ」
それは合ってる。
「ああ、ごめんな、学校に行くところなのに」
「いえいえ。それじゃあ行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
おじさんすいません、今日も電話かかってきますがよろしくお願いします。
おかげさまで今週も学校帰りは山崎のおじさんと出くわさずに一週間を終えられそうだった。だがこれもそろそろ限界だ。おじさんが警察沙汰にしたり本来何の関係もない駅前の美容院にクレームを入れに行ったりしたらまずい。山崎のおじさんと接触しないで済む別の方法を考えないといけない。あと未だ解決に至っていない『今度切りに行くって言ってましたよ』問題をどうにかしないと。あの子とのデートまで10日を切った。
だが事態は思いもよらない方向へ展開していく。
6月最後の週となった木曜の朝、登校の際におじさんと出くわした。おじさんはさらに日に焼けていて、少し痩せてもいた。俺はまたプレッシャーをかけられるだろうと警戒していたが、おじさんは何も言ってこなかった。「おはよう」と「行ってらっしゃい」だけだった。手には丸めたポスターが握られていて、俺を見送ったあとに貼っていた。割引率を上げるんだろうか。今さらのような気もするがじじいばばあは喜ぶだろう。もしかしてじじいやばばあはこの時を待っていたのかもしれない。わざと髪を切りに行かず、もっと値下げさせてそれから行こうとしたのかもしれない。
その日の帰り、いつものように少し離れた物陰から様子を見るとそこに山崎のおじさんの姿はなかった。縞々模様のやつが回っているので営業はしている。
「お、もしかしてお客が来てんのかな」
とにかくグッドタイミングだ。俺はありがたく通り過ぎさせてもらった。
真相を知ったのは家族で晩ご飯を食べている時だった。
「あ、そうそう。お隣の床屋、聞いた?」
「え、どうしたの?」
興味のない人たちを代表して俺が母に訊ねた。
「山崎さんのとこ、お店たたむんだって」
「え?」
「ね。残念ね」
「え、マジで?」
「今月いっぱいで閉店するそうよ」
「ええ!?」
俺は耳を疑った。バーバー山崎が閉店? 耳への疑いが晴れず、
「ええ!?」
と、母を見つめたまま再び叫んだ。
「え、今月いっぱい!?」
「そう。びっくりしちゃった」
今日は木曜だから、金、土、日……あと3日!?
弟を見ると全然驚いていない。ちょっと、「ええ!?」は? お前ら、「ええ!?」は? 温度差にも驚きそうになったが、どうやら俺が帰ってくる前に先に母から聞いて驚き済みで、もうピークは過ぎていた。父はまだ仕事から帰ってなく、俺がただひとり、やたらと驚く。
「え、マジで!?」
喜ばしいことなのに、なぜか喜べない。
「マジよ」
「だってキャンペーンやってたじゃん」
「帰ってくる時お店のドア見なかった? 閉店のあいさつ」
「え?」
あ。朝貼ってたやつってそれだったのか。
「でも突然過ぎない?」
「お母さん、買い物に行く時見たんだけどね、もうびっくりしちゃった。思わず自分から店の中入って聞いちゃったわよ。あのね……」
母は弟にも同じ話をしたせいか、だいぶ話に磨きがかかっていた。無駄が削ぎ落とされ、最小限の言葉で事実を伝えるとともに自分の感情を見事なタイミングに落とし込んでドラマチックに顛末を教えてくれた。
母いわく、もうだいぶ前から店をたたむことは考えていた。子供たちも今まで以上にお金がかかるようになるため、奥さんからも転職を勧められていた。あの年齢だと別の仕事を探すのは難しいだろうが、バイトでもしたほうがよっぽど収入になるらしかった。山崎のおじさんは店をたたむ踏ん切りがつかず、キャンペーンに打って出た。だが起死回生を狙った作戦はうまくいかず、いよいよ閉店せざるを得なくなったという。店の再生をはかると同時にどこか雇ってくれる床屋も探してみたが年齢的に厳しかったらしい。知り合いの理容室を当たってみたがどこも人を雇う余裕はないみたいだった。
「気の毒だけど、しょうがないわね」
俺は絶句した。あれだけ潰れればいいと思っていたバーバー山崎が望み通りの展開となり、事態も飲み込めた今、ようやく喜べるかなと思ったけどまだ喜べない。
「でも、ずいぶん急すぎやしない?」
「少しでも早く職を見つけないといけないみたいよ。それだけ切羽詰まってたのよ」
聞けば聞くほど喜べない。生きていくってなんて大変なんだ。なんて残酷なんだ。
その日の晩はなかなか眠れなかった。日付が変わろうとしている頃、父が帰ってきた。母が寝室を出て階段を降りていく。しばらくすると、一階のリビングから父の「ええ!?」が聞こえた。きっと今、母が伝えているのだろう。
夜が明けてもまだ喜べないでいた。身支度をし、朝食をとってあとは学校へ行くだけとなり、いつもなら山崎のおじさんに出くわさないように警戒している時間だけど今日はなんだか会いたい。でもそんな時に限っておじさんはいなかった。
学校でも授業はおろか恋までも身が入らず、ずっとおじさんのことを考えた。この先の生活は大丈夫なのか。おじさんは別の業界でやっていけるのか? どこか雇ってくれる床屋は出てこないのか? 山ちゃんのことも心配だ。
あれだけあの子のことを考えていた頭は、今日は山崎家のことでいっぱいだった。帰りに山崎のおじさんに会っていろいろと直接聞いてみようか。でもなあ。付き合いが長いお隣さんだけに気まずいし事業に失敗した大人は俺には荷が重い。会いたいけど会いたくない。どうしよう。そうこうしているともう家の近くだった。おじさんは店の前にはいなかった。いつものように物陰から様子を伺うものの、いつも以上にそそくさと通り過ぎた。
山崎のおじさんとは朝も学校帰りも出くわすことなく週末を迎え、バーバー山崎最後の日、俺は用もないのに出かけたりして何度も店の前を行ったり来たりを繰り返した。やみくもにそわそわして、俺は何をしたいんだ。
夜、俺は家の外へ出て、庭に停めてある父親の車に隠れてバーバー山崎の様子を伺った。もうすぐ閉店の時間だ。店のドアが開いておじさんが出てきた。会いに行こうと思ったが足が前に出ない。声をかけようとするものの、のどに詰まる。おじさんは粛々と店じまいを進めた。縞々模様のやつのコンセントが抜かれ、動きが止まって灯りが消える。おじさんは店の外観をしばらく見つめていた。タバコを取り出して火をつけた。山崎のおじさんは三本も吸った。その間、ずっと店を眺めていた。最後のタバコをもみ消すと、山崎のおじさんは中へ入っていき、バーバー山崎が暗くなった。
7月になり、新しい1週間が始まった。今週から試験が始まる。終われば待ちに待ったあの子とのデートだ。帰り、いつものくせで物陰からバーバー山崎の様子を伺ってしまう。山崎のおじさんはいないし、店も営業していない。本当に閉店したんだな。あ、そうか、もうこんなことしなくていいんだ。もうコソコソしないでいいんだ。これで山崎のおじさんの目を気にせず毛先を遊ばせられる。身を潜めるようにして生きてきた息苦しい日々から解放されたのだ。
そう思った途端、昨日までとは打って変って、俺の心は晴れやかになっていった。くよくよしていたって何も始まらない。それは俺もおじさんも一緒で、俺のほうがくよくよするのはお門違いも甚だしい。俺は胸を張っていつもの物陰をあとにした。
ゆっくりと堂々と、俺は歩みを進めた。店の前まで来ると俺は足を止めた。ドアには閉店の挨拶が貼られていた。お疲れ、おじさん。中を覗くとおじさんが髪を切る椅子に座ってタバコを吸っていた。気づくと俺はドアを開けていた。
「おう、ゆうちゃん。どうした?」
「あの、おじさん。長い間お疲れ様でした」
「ああ。ははは、ありがとう」
自ら乗り込んでおきながら、会話が進まない。やっぱり本人を目の前にするとなかなかだった。おじさんも何をしゃべっていいかわからないようだ。
「あ、結局、髪切りに来れなくてすいません」
「ああ、いいよいいよ」
「行こうと思ってたんですけど……」
俺はおじさんに少しでも喜んでもらいたいと思って嘘をついた。
「ううん、こっちが悪いんだもの。気にしないでよ」
「……はい」
「そうだ、今お茶持ってくるから」
「あ、いえ、お構いなく」
おじさんは家の中へ行ってしまい、俺はバーバー山崎に一人になった。ここに来るのは久しぶりだ。たいして変わってはいないな。よくここで遊んだもんだ。不思議なもんで当時の記憶が順を追って蘇ってくる。まだ髪を切ってもらってありがたいと思っていた頃の思い出たちだ。山ちゃんと店の中で遊んだこと。騒いでおじさんを困らせた。山ちゃんが塾に行ってて遊べない時はおじさんが遊んでくれたっけな。よく店の前でキャッチボールをしたな。ごはんをご馳走になったこともあったな。おばさんのごはんは美味しいんだけど、おじさんが作ったごはんも旨かった。月曜が定休日だけど、日曜に店を休んで山ちゃんと俺をどこかへ連れて行ってくれたこともあった。ドライブもしたな。で、だんだんここで切るのが嫌になっていったんだ。店にはおじさんの技術じゃできもしない髪型のモデルの写真がいくつか飾られている。しかも古い。だせえなあ。これ以上思い出をたどると泣きそうになると思い、頭の中を無理やりここ数年のおじさんへの憎悪に塗り替えようとした。いずれにせよ、やっぱりあの日のおじさんの顔だな。俺が初めて別の店で髪を切ってきた日の顔。あの顔がどうしても思い出される。おじさんの葬式の時も、きっと思い出すだろうな。しかし、なんか落ち着くなあ、ここ。ここ、なくなっちゃったのか。
しばらくするとおじさんがお茶を持ってきてくれた。
「ごめんな、お茶っ葉が見つからなくて。今、女房パートに出ててさ。ははは」
「すいません、いただきます」
おじさんが店の中を見渡す。
「あっという間だったなあ、20年」
おじさんは今後どうするのか、いろいろ聞きたかったがやっぱり聞けない。
「昔はさ、よくゆうちゃんの髪を切ったよなあ。まだこんなちっちゃくてなあ。丸坊主とかスポーツ刈りとか坊ちゃん刈りとか、色んなヘアスタイルにしたっけな」
おじさんは優しく笑いかけてお茶をすすった。
「この20年、地域の皆さんにはお世話になったなあ。なんにも恩返しできないまま終わっちゃったよ」
子供が自分の親には話せないことがあるように、親にも自分の子供には話せないことがあって、それを俺に話してくれているようだった。
「決して順調じゃなかったけど、みんなに助けてもらってたんだよなあ。みんなが髪を切りに来てくれたから20年やってこれたんだよな」
俺はただただおじさんの話に耳を傾けた。それしかできない。
「もっと早めに踏ん切り付けられていたらなあ。家族にも迷惑かけちゃったよ」
あんなにうっとおしかった山崎のおじさんに情が湧いて仕方がない。執拗なまでに警戒したり会わないように知恵を絞ったのが嘘みたいだ。
「昨日も結局さ、最後だっていうのにお客が一人も来なかったんだ」
そうだったのか……。なんてかわいそうなんだ。
「もっと早く店をたたむべきだったんだよなあ。もっと早く気づくべきだったんだよ。引き際って難しいよなあ」
俺には親の苦労がいまいちわからない。でも山崎のおじさんの姿を通して、少しだけわかった気がする。おじさん、ありがとう。そして本当にお疲れ様でした。俺は心の中で深いお辞儀をした。
「ゆうちゃんにも、ゆうちゃんちのみんなにもお世話になったな。ありがとな」
「いえ、そんな」
おじさんはとても柔和な微笑みを浮かべている。なんて温もりのある笑顔なんだ。こっちまで優しくなる。俺は今まで山崎のおじさんを誤解していた。金に汚くて、慕われる要素のかけらもない人だと思っていたが、おじさんはおじさんで大変だったのだ。今日からあの頃のように仲良くやっていけそうな気がする。
「ゆうちゃん」
さびれた店の中。
理容師を全うしたおじさんを夕日がいたわるようにくるんでいた。
「俺の最後のお客になってくれないか?」
「え……?」
思わず聞き返した。
「理容師としての最後の仕事をさせて欲しいんだ」
「いや、あの……」
俺は動けなくなった。
「な? ゆうちゃん。いいだろ?」
「いや、あの、でも、昨日……閉店……」
「最後にゆうちゃんを切れるなんて、俺は理容師として幸せもんだなあ」
「ちょ、あの、昨日……閉店……」
「これでもう悔いはないよ。いい床屋人生だった」
思考は停止し、おじさんに操縦されるがままとなった。俺は真ん中の席に座らされ、緑色のシートを巻かれた。懐かしい思い出に満ちた店の中が、檻に閉じ込められたように感じられる。
「どういう風にする?」
そう聞かれても声が出ない。俺は慌てふためき、周りを見回してなんとか助かる術を探した。誰か助けてくれないか。その時、壁に飾られたモデルの写真と目があった。思わず見つめ合う。するとおじさんの声が聞こえてきた。
「了解」
霧吹きで頭に水をかけられていく。おじさん違う。そういう意味じゃない。気持ちとは裏腹に髪がどんどん湿らされていく。しっとりしていくそのたびに生命力が失われていった。
ダサくなりたくないんです。心の中の叫びは俺にしか聞こえなかった。
店内に響いたのは、目の前の鏡にうつった初老の理容師の言葉だった。
「おかえり、ゆうちゃん」
終わり
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