見出し画像

AOIROさんのお手紙にお返事

noteの面白いところは、普段の生活圏では出会わなかっただろう人と知り合えることだと思います。地理的にきっと出会うことがなかっただろう人、全然知らない職業に就いている人、趣味も年齢もバックグラウンドも全く違う人。だけどnoteに書かれている文章を読むと、言葉から紡ぎ出されそこはかとなく立ち上がる人間性や感性に、グッと惹かれる魅力的な人たちが何人もいます。

ときには深く共感し、私の言いたかったことをこんなふうに言語化できるんだと嬉しくなり、またあるときは考えても見なかった発想に驚いたり、想像もしなかった豊かな経験を垣間見て刺激を受けたり。記事を読み、ハートのボタンを押し、コメントのやりとりをするだけなのに、そこには面と向かってのコミュニケーションとは、また異なる次元での深さがあるように感じます。


AOIROさんのnoteを読むようになったのはいつ頃だったでしょうか。AOIROさんのnoteを初めて読んだ時に、この人は只者ではないな!と感じてフォローさせてもらった感覚を覚えています。初めて読んだ時、なんだか凄く頭の良い方だな!と思ったのです。

”頭が良い"って軽く響きがちな形容詞ですが、私の中では”面白い”に並んで”頭が良い”は最上級の形容詞のひとつです。ただ頭の良さの中には例えば、勉強ができる、知識が豊富、公平に思考できる、自説に固執しない、分析することができる、視野が広い、想像力がある、発想が豊か、例えるのが上手い、多角的に物事を見れる、説明するのが上手、頭の中が整理整頓されている、異なるものを比較し組み合わせるのが巧い、などなど細分化し始めるとキリがないくらい、様々な基準があって、ただ単に「頭が良いですね」というと誤解も生まれてしまいそうです。

私の中で感じたAOIROさんの”頭の良さ”は言葉と真摯に向き合う丁寧な姿勢です。
AOIROさんのnoteを読んでいると、言葉を丁寧に選んで使っている方だから、とても惹かれるのだなと思います。


AOIROさんは元々英語話者であり、幼稚園に入ってから日本語を学んだそうです。ご本人は今でも時々日本語のニュアンスがわからない時があると書いてらっしゃいますが、だからこそ日本語で書かれる言葉のひとつ一つに対してとても自覚的であるように感じます。


母国語だと、少なくとも私は、そこまで自分の使う言葉の細部にまで意識を張り巡らせることがありません。良くも悪くも全自動で口から出て行ってしまうから、注意に欠けてしまいます。そして共通の言語を話している相手には、自分が思い描いているのと同じ概念が伝わっていると、無意識のうちに信じ込んでしまっています。



私にとって2番目の言語であるフランス語で話すとき、日本語を話すときとは脳みその異なる部分が、せっせと働いているのを感じます。それは自分にとって主になる言語である日本語を話しているときには、動かしていない部分です。

私のフランス語の語彙力は日本語のそれに比べて圧倒的に少ないため、自分の表現したいイメージを頭の中に描き、少ない絵の具の中から近しい色を選んで組み合わるようにして、ぼんやりと描きたいイメージに近づけていくように話します。
細部まで描ききれてはいないのですが、全体としてのイメージが大きく外れてさえいなければ、少ない色の組み合わせでも、それはそれで味のある絵になっていてほしいな、と思いながらフランス語で話しています。

それでも思っているように伝わっていないかもしれない、自分の話す言葉は完璧じゃないかもしれない、と言葉につまることもあります。しかし、完璧ではないと自覚できることはハンデではなくて、言葉に向き合う真摯でそして丁寧な姿勢の始まりです。


自分の話す言葉に対して意識的であることは、言語というものを通して人や文化、認識や世界について向き合うきっかけになるのだなと、AOIROさんのnoteを読んで考えていました。


そんなAOIROさん、先日まで企画をされていました。
参加すると、AOIROさんがnoteを読んで長い長いエッセイコメントを書いてくれるというものです。

人見知りなのですが、AOIROさんのことが気になっていたので思わず参加しました。

そして私のnoteを読んで、AOIROさんがこんな素敵なエッセイを書いてくれました。



この人の感性いいな!と思う方に、自分の書いたものをこんなにもしっかりと読み込んでもらえて、しかも感じたことを言葉にして伝えてもらえる機会って、なかなかないと思いませんか?
参加させてもらえて私はとってもラッキーでした。


AOIROさんは私のnoteを読んでフェアな透明感を感じてくださっといいます。

常々、公正でありたいなと思います。だけど実際には、なかなかいつだって公正ではいられません。基本的に自分さえ良ければそれで良いと思って生きています。だって自分が幸せじゃなかったら、他人だって幸せにはできないからね、突き詰めれば自分が一番大事なのは誰だって同じでしょう?という言い訳をくっつけて。

でも多角的に物事を見て考えることは、なるべくどうしても心掛けていたいです。


それだって、自分のためです。自分で自分の世界を狭めてしまいたくないからです。
ひとつの視点しかなければ、物事の一面にしか気づくことができません。
しかし多角的な視点を持つことができたら、ひとつの経験だってサイコロをクルクル転がすようにして、他の面に隠れていた数字を見つけることができます。経験が2倍にも3倍にも膨らみます。
それって自分の人生を自分で楽しくする方法のひとつだと思うのです。

では物事を多角的に見ることができるというのはどういうことか?公正であるってどういうことか?

私にとっての答えの一つが『12人の怒れる男』という映画です。
ヘンリー・フォンダ演じる主人公が、私にとって”頭が良い”人の見本となるような役なのです。多角的に物事を見ることのできる、とても公正な人です。こんな人になりたいなと、初めてこの作品を観て以来、ずっと思っていました。

だからAOIROさんが私のnoteを読んで、多角的に考えようとしていると感じてくださったことが本当にとても嬉しいです。


『12人の怒れる男』の主人公にはまだまだ遠いけれど、いつか同じ景色を見ることができたらなと思っています。


最後になりましたが、ヴェネチアビエンナーレの記事は会場で感じたモヤモヤをぶつけるように書いたもので、感情が先走り過ぎて論理的にまとめられていないんじゃないかなと思っていたのですが、AOIROさんが書いてくださった感想を読んで補完されたように感じます。

AOIROさんはきっと”芸術鑑賞用語”もペラペラなのだろうと想像します。


”芸術鑑賞用語”を知った上で、だけど鼻で笑うことのできるAOIROさんはやっぱりすごいなと思うのでした。


AOIROさん、素敵な企画を、そしてエッセイを、ありがとうございました!

きっと時間をかけて読み、言葉にしてくださったのだと思います。それって本当にすごいことだなと思います。

ジェダイマスターの言っていた、AOIROさんの中にある愛を私は感じました。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?