見出し画像

図鑑という記号。

この投稿はわたしの暴論。
Googleレンズになくて図鑑にあるものは色気。
わたしは人間の色気至上主義者なので、Googleレンズでは感じない身体のようです。



植物観察で、Googleレンズをわたしもさいきん使っています。
Googleレンズによる観察は飽きます。飽きました。


わたしが図鑑が好きなのはこれは正直性癖で、意味はまったくないです。
「図鑑好き」に無理やり物語性を乗っけることもできましょうね。
たとえば、
「図鑑はプロフェッショナルたちの仕事。価値がある」
「やはり紙の本をめくる感じが学び、しっくりくる」
など。
わたしもそのように言うことがあったけど、やはり嘘と言わざるを得ないです。(上記の感覚はもちろん本物です。本当です。そう感じるひとたちの感想として本物です。)

以下、わたしのただのド偏見ですが、
例えば千円台から数万円台ありますけど、プロフェッショナルたちへの敬意と大仰な言葉に落とし込むには、あまりに安いです。
しかも印税となったときにわたしの感覚では、その金額と「価値」「敬意」という枠組みはちょっとあまりにも。あべこべ、ちぐはぐです。わたしはそのぐらつきが実は気持ち悪いのです。でもキツイ言葉に思えるから、じぶんの感覚を言葉にするとき、かならず別の枠組み(言葉)に変えています。誰に対してもそうです。本音を伝えているひとはひとりもいません。
わたしは言語化が下手なので、ならばあまり自分を繕う言葉を出さないほうがいいなとだけ思います。なので、あくまでも、わたしの場合は、図鑑を手に取るのはやはりどう考えても単純に性癖です。

性癖=すごみ(凄み)を感じるのが好き というものです。
本が好きなひとのなかには一定数いるのでは。

(すごみといえば。
作家の澁澤龍彦の、修行僧がみる恍惚の境地? さとりの境地? の光景と、LSDを使ってみる幻覚光景に違いはないというような発言が有名です。わたしは修行僧のみたものとLSDを使ってみたものが同じかどうかなどはわかりっこないのですが、澁澤龍彦のその発言にすごみを感じるんだなぁ。
誰がいっても凄みのある文言というわけじゃないでしょう。わたしは澁澤龍彦は挫折してるけど、それでも一度はほぼ買ってるから、あのひとのバックボーンがあっての発言とみるとやはり役割、使命がある言葉だと思えます。)

圧倒的にすごいもの、凄みって、そんなにないのですが、たまに感じちゃうもの、対象(ひと)があります。
偉大なひとだから凄いというのではなく、妙な隙間みたいなものにすごみを感じることもあります。これは極私的なものなので語る価値はないのですが。

性癖を持ったひとを対象としてやっていくのが意外と本の生き残り戦略なのではないかなと思います。(王道の勉強家たちのことは含みません。あくまでも消費社会のなかでの、購買層一部ルートの話。)