女を殺したいという理由じゃいかんのか?ー小田急線の通り魔事件を受けてー




 東京の小田急線にて女性を数人ほど負傷させた上にサラダ油を撒いて火をつけようとした男が逮捕されたという事件があったわけだが、電車内という密室で起こった事件であったのと、「幸せそうな女性を殺してやりたいと思った」という犯人の発言があったことでTwitter上でも話題となった。
 この事件を「女性を狙ったフェミサイドである」と指摘している人がいたわけだが、この「フェミサイド」という言葉に対して「いやこの事件は弱い人間を狙っただけであってそれがたまたま女性だった」とか「犯人は派遣社員で先行きが見えないからヤケを起こしたのであって犯人も追い詰められていたのだ」といった言動があったようだ。
 フェミサイドというのはざっくり説明すると「女性をターゲットにした憎悪犯罪」のことで、私もこの事件はフェミサイドであるということに異論はないのだが、私が引っかかっているのはフェミサイドという言葉に対して妙に突っかかってる人達のことである。
 というのも彼らは犯人が派遣社員であることが事件の根幹であるかのように語っているからだ。
 私も派遣社員もまた弱い立場であるから事件と関係ないとは思っていないけど、それはあくまで事件のきっかけに過ぎず、やはり動機は犯人が語った「幸せそうな女性を殺してやりたいと思った」じゃないかと考えているからだ。

 私がそもそもなんでこの事件のことをわざわざnoteに書こうかと思ったのは、犯人の動機を文字通りに受け入れず、社会の責任であるかのように語る人が多いなと感じたからである。前にも言ったがこれは事件と関係ないと言いたいわけではないがきっかけに過ぎないであろう。だいいちなんでもかんでも社会の責任にするのもそれはそれで犯人の意志を無視しているようなものではないか。
 なので私は「幸せそうな女性を殺してやりたいと思った」という発言に注目したわけである。
 この発言に注目すると「この事件はフェミサイドだ」という話になってくるが、私はここではあえてそういう話をしない。女性蔑視もまたというよりこれこそが動機なのであろうが、ここではあえて触りだけにする。(正直に言うとフェミニズムを語れるほど詳しくないというのもあるが。)
 私が特に注目してるのは「殺してやりたいと思った」という発言である。

 大抵の人は「殺すからにはそこにはなにか社会に対し強い不満があるはずだ」と殺人という行為に対して理由をつけたがるわけだが、世の中には「殺したいから殺した」で殺人を犯すものがいるわけである。
 要するに社会に対し不満を表明するためではなく、殺すことそれ自体が目的となっているのだ。
 「殺すことそれ自体が目的」と言われてもピンと来ない人も少なくないであろうが、それを示す「快楽殺人」という言葉がある。
 快楽殺人なんていったらいかにも猟奇的で人によっては「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターのような異常な人物を思い浮かべるだろう。
  ここでレクターの名を出したのは彼にはモデルとなった人物が存在している。要するにレクターのような殺人者が実在しているということだ。(関係ないがモデルの中にジェフリー・ダーマーの名を上げてるサイトがあるけど、アメリカで映画が公開されたのは91年の2月14日で逮捕されたのは同年の7月22日なのでモデルじゃないだろと突っ込みたくなる。)
  モデルであろう人物のことを話すと長くなってしまうためここではあえて名は出さないが、手口がどれも残忍であるため実在していると言われても彼らは怪物にしか見えず、かえってリアリティを感じられない人もいるだろう。
 しかし、私としては一線を超えるのは流石にそうそうないとしても、「別に恨みがあるわけじゃないが人を殺してみたい」と考えたことがある人はいてもおかしくはなかろうということだ。
 私がなぜこう思ったのかというと、世の中には過度に暴力的なコンテンツが少なくないし「リョナ」と呼ばれる猟奇的なオタク系のエロコンテンツが極わずかとはいえそれなり支持者がいるということを鑑みてのことである。ここで暴力的なコンテンツ云々の話をすると「そういうコンテンツを嗜んでいるからといって殺人をしたいとまで考えてない」とか「暴力的コンテンツには実害があるんじゃないか規制しろ」みたいな話になりかねないが、私が言いたいのは「需要があるから供給がある」ということであってここではそれ以上の話はしない。

 人間というものは殺人ということを大ごとだと捉え、それ故に「殺人という重罪を犯すからにはなにか深い理由があるに違いない。」と考える人の方が多いのだろう。故に「殺したいから殺した」という動機を受けいれることができないのだ。
 そもそも何故ことに殺人を重罪と考える人が多いのかというと、それはなんだかんだいっても「人の命はかけがえのない大切なものである」としているからである。なので「殺したいから殺したなんて命の冒涜にも程がある。そんなふざけた理由で人を殺していいわけあるか」となるわけだ。
 私とて「命はかけがえのない大切なもの」という考えに同意しかしていないし「殺したいから殺した」なんて言われたらふざけんなよと思うが、私たちは犯人の過去や心境を知りようがない以上発言だけを心にとめておくべきで、それ以上のことは余計な詮索にしかならないであろう。
 それに犯人の発言を受け入れず社会問題とするのは、「自分が犯人の言い分に納得いかないからこれは社会問題だ」と言っているようなもので、そっちの方が犯人に対する敬意が感じられないのだがどうだろうか。人をしょうもない理由で傷つける人間に敬意を払う必要はないと言われたらそれまでだが。

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