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ある義肢職人の話

「いらないものをつくってるんだよ」
義肢職人は笑った。


義肢を作ろうと思い立った。27歳の7月のことだ。
先天性四肢欠損症の私は、右手の小指以外が短い。
左手は指が4本しかなく、そのすべてが2㎝ほどの長さだ。

その頃、自分の人生を変えたくて仕方がなかった
4年間務めた会社、3年付き合った彼氏、25年間住んだ実家。
すべて離れたくて、転職して、別れて、一人暮らしをした。
それでも、日常は大きく変わるものではない。
朝起きて会社に行き、夜帰る。
その場所が変わっても、自分は同じなんだと知った。
そんな自分の人生を変える最後の手段が、見た目問題の解決だと当時は思っていた。

小学校の校庭にあった運ていが苦手なこと以外は、日常生活にもスポーツにも何不自由なく育った。
箸を持ち、鉛筆を持ち、自転車に乗り、小学5年生から始めたバドミントンは高校卒業まで続けた。
仕事にもさして影響はなく、この文章もPCで書いている。
転職の面談でも、影響を感じたことは(少なくとも直接は)なかった。

だけど、手元への視線にはどうしたって過敏になる。
コンビニのレジで、客先の打ち合わせで、気になる人とのデートで。
手さえ気にならなくなればすべてが変わると思った。

練馬にある、その義肢製作所は海外機関とも連携があり、
Webサイトに掲載されていた動画を見ると地肌との境目がわからないくらいの自然な仕上がりで、これをつけて送るバラ色の未来を想像した。

初めて工場を訪れてから約半年。
右手の義指4本と、左手の義手は8割方出来上がった。
最後の総仕上げというときに、私はそれを断った。

何不自由ないのに、”みんなとちがう”。
私は物心ついたころから、みんなと同じになろうと必死になった。
ダサいと思われないように、やりすぎと思われないように。
みんなと違うことは、“変”だから。
ななこちゃんの手は、変な手。


大学生になり、アメリカに留学をした。
言語が違う、文化が違う、人種が違う。
違いだらけの環境は、私を自由にする気がした。
手の形が違うことなど忘れて、ただ日本人でいられる時間だった。

日本に帰って就職活動が始まると、
また手のことが気になり始めた。
手が理由で落とされるかもしれない。
「日常生活に不自由はありません」と言い張ることが、
自分は障がい者だと感じさせた。


私が義肢を断った理由は、2つある。
一つは、純粋に使い勝手が悪かった。全体の半分以上が感覚を持たない義指、義手は、軽いものを持つ以上の動きは難しい。
日々キーボードを打ち、ペンを持ってメモをとるわたしの毎日には向かなかった。
不完全なようでわたしの指は、わたしの夢を支えていたのだ。

二つ目は、やっぱりまやかしでしかないと気づいたこと。
制作途中の義指、義手をつけてスマホを持ってみた。その姿を鏡に映すと、“普通の人”がそこにいた。握手にも名刺交換にもひるむ必要のない、“完全な人”。しばしうっとりしてから外すと、今まで見慣れてきたはずの自分本来の手が急に異物のように見えた。
「くさいものに蓋」をしただけで、隠した後は余計に違和感が強くなる。
毎日このギャップを突きつけられたら、わたしは壊れてしまう。
そう瞬間的に感じた。


そんなことを正直に話すと、
「100点満点の答えだね、みんながそう思ってくれたらいいのにね」
と職人は怒りもせずに返した。

「こんなもの、本当はいらないんだよ。みんながそう感じられるようになったら、それが一番幸せだと思うんだ」

「でもね、結婚式で相手の親族に嫌な思いをさせないか、子どもの授業参観で見られたら子どもがいじめられるんじゃないかって、みんな誰かのために作るんだよね」

「だからもし、将来やっぱり必要になったらまたおいで。型は取っておくから」

ここまでの制作費を請求することも、無駄な労力をかけたとなじることもなく、彼は優しく笑った。

工場を出て、母に電話をした。
「どっちでもよかったけど、まぁいらないんじゃない?」
四肢欠損症で産んだ責任を問う気もさらさら無いし、彼女にしたって必要以上にも以下にも感じていない。

それくらい、そういえば大した問題ではなかったのだ、最初から。

義手用に取っておいたお金は、その一年後サーフィンにハマったわたしの湘南居住費で消えることとなる。
パドルもできるしボードも持てるよ、大丈夫。
まやかしの指先は、最高に楽しい時間と友人たちとの出会いに変わったのだ。




※あくまでわたし個人のケースに基づく経験と感情です。世界にはさまざまな理由で手指を失い、さまざまな理由で義肢を必要とする人がいます。


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