理解なき"巡り"

ありとあらゆるゲームのプレイングを考える際に出てくる言葉に、「巡(めぐ)り」という言葉がある。
そしてこの「巡り」という言葉は度々しょうもない論争を巻き起こしているのを見る。
少なくともあたいが観測した中でこの「巡り」が下らん衝突を最も引き起こしているのを見るのは麻雀の世界である。
恐らく、麻雀をやった事がある人だったら1度は耳にした事があるだろう、「巡りが悪い」という言葉。
つまり、「麻雀に『巡り』など無い」とする者とそうでない者の不毛な言い争いである。個人的に、この争いが起きているのは「巡り」の理解の差だと感じている。
「巡り」を知っているかどうかではなく、「巡り」を「どういうものか」と捉えているのか、という差である。

自分が観測している限りで言えば、大抵の人が言う「巡りが悪い」というのは、「何らかの不運が続いている状況」を言っている。
ここでややこしい事態を引き起こすのは、「不運」という部分と「巡り」という言葉である。

不運とは何かをまともに考えずに生きてきた幸せ者には分からないし、一生分からないままで居て欲しいのだが、そもそも不運には2種類ある。
制御可能な不運と、制御不能な不運である。
これは、何らかの「事故率」が絡むゲームをやった事がある人ならば理解しやすいと思う。
今、あるアクションを実行するに際して、何らかの不都合な事態が発生する「事故率」が40%あると分かっているとする。
そして、1000コインを支払って何かアイテムを1つ買うと、1つにつき事故率が半分になる物があるとする。
手持ちが3000コインであるとすれば、プレイヤーの選択肢としては都合次の4つが存在する事になる。
・1コインも支払わない;事故率40%でアクションを実行する
・1000コイン支払う;事故率20%でアクションを実行する
・2000コイン支払う;事故率10%でアクションを実行する
・3000コイン支払う;事故率5%でアクションを実行する
つまりこの場合、コインというリソースを消費すれば、その分事故率、すなわち不運が発生する確率を低減する事ができる。
ここで大事なのは、この場合大枚をはたいて3000コインを支払ったとしても、事故率が5%残っているという部分である。

これを見ている人の目に映る現実世界がどのような物かは知らないが、現実世界で起きる出来事をあれこれ見ていれば、感覚的にこれに似たような事はたくさんある事は分かってもらえるはずである。
つまりは、「対策してもダメな時はダメ」というアレである。
人間というレイスは残念な事に不十分で不完全で救いようの欠片も無い、邪神も堕天使も手の施しようが無い存在なので、どんなにあれこれ手を尽くしても、うまくいかない時というのはどうしても存在する。
人間にできる事などたかが知れているので、「ここまでやってダメならどうにもならん」という覚悟をどこかでつけないといけない。
不運や失敗の関連で人と人がもめる事が多いのが、この「ここまで」の閾値がどこなのかという話である。

要は、不運には「何らかの行動によって低減できる部分」と、「何をしても低減できない部分」がある。
そして、ありとあらゆるゲームは、この不運を「どこまで低減して事に臨むか」という所が本質の1つになっている。
もちろん、人によってこの「何らかの行動によって低減できる部分」の大小は変わってくる。
慣れていなかったり思慮が思い至らなければその部分は小さくなるし、慣れていたり、可能な限り深く広い思慮を巡らせる事ができればその部分は大きくできる。
世の人間が、一般に「実力」であるとか「経験」と呼ぶ部分である。
そして事態をもっとややこしくする事に、「何らかの行動によって低減できる部分」には「幸運によって低減できる部分」も含まれている。

もしここまで読んで、「幸運によって低減できる部分」は「制御できる不運」か? と思った人がいたのなら、それは幸いな事である。
個人的には本当に不思議な事なのだが、世の中には何故かこの「幸運で低減できる不運」を「制御できる不運」に本気で数えている人がいる。
「幸運で低減できる不運」というとピンと来ないかもしれないが、イメージとしては「運も実力のうち」的なサムシングである(あたいはこの言葉無限に嫌いだが)。
もうちょっと噛み砕くと、「直感」であるとか「感性」といった所でどうにかできる部分と読み解く事も可能ではある。
確かに、人にはどうしても向き不向きが存在する以上、感性のような生まれついての物によって制御できる領域というのが存在するのだ、と言われれば納得できない事もない。

で、ここまで不運についてやたらごちゃごちゃと能書きをたれたが、ここで改めて「巡りが悪い」、つまり「不運が続いている」という事に話を戻す。
まず、この続いている不運の大半が「制御不能な不運」である場合、これはもう本当に不運な状況に陥っているのだろう。一方で、続いている不運の大半が「制御できる不運」の場合、事情が大分変わってくる。

「制御できる不運」というのは厄介で、当然、意図的に「制御しない」という事を選択する事もできる。この場合、制御しなかった結果として(想定以上の悲劇が起きた場合は別だが)不運に直面したとしても、それは精神的にあまり大きなダメージにならない場合が多い。いわゆる自業自得という感情である。対策できる物をあえてしなかったのだから、それによって何らかの不都合が生じたとしても文句は言えない。これは多分大抵の人が理解できる感情だと思うのだが、不思議な事に世の中にはこの「制御しなかった結果発生した不運」に対してもキレる人がいる。腹立たしいまでに困った物である。こういう人程脈絡なく「不運が続いている」と言い散らかして不機嫌になる場合が多い。
一方、そもそも制御しなかった結果発生した不運が続いている場合、大抵の人はそもそもそれを「不運が続いている」とは呼ばない。単なる自滅である。

というわけで、「不運が続いている」という状態にも色々あるという事がやんわりとでも分かって貰えればとりあえず不運についてはそれで問題ないと思う。
「巡りが悪い」という言葉のややこしい場所のもう一つが、正しく「巡り」という言葉である。

「巡り」という言葉を見聞きした時、「季節の巡り」と言われたりするように、恐らく「ぐるっと巡ってくる」「周回してくる」「周期的な何か」のようなイメージを抱く人が大多数ではないかと思う。
「不運」に対して「巡り」という言葉を用いると、幸運と不運がさも順繰りに巡ってくる性質のような物のように感じられる。
「禍福は糾える縄の如し」というように、幸運と不運とは常に近くにあるようなもんだから、不運は時は落ち込まず、幸運な時は気を緩めないように、と戒める言葉もあるのだが、一方で「人間万事塞翁が馬」と言われるように、人間の幸運や不運は予測ができるような代物じゃない、と謳う言葉もある(とか言いつつ、人間万事塞翁が馬の元とされる出来事は不運と幸運とが順繰りに来てるのでどうなんだろうという気持ちもある)。

考えれば分かる事だが、幸運と不運が順繰りに来るかどうかなんて事は誰にも分からない事である。当然、一時的には順繰りに来る事もあるだろうが、不運が続く事もあるし幸運が続く事もある。「巡りが悪い」と言われてピンと来ない人は、多分幸運と不運は順繰りに来るようなもんじゃないとどこかで考えているのかもしれない。全人類の幸運と不運のグラフを書くともしかしたら何か周期性があったりするのかもしれないが、実際の所はそんな事誰にも分からない。ただ、幸運と不運は順に来るだろう、と思っている人は、そういう運気のルーティンを指して「巡りが悪い」と呼んでいる場合もあるかもしれない。
その場合の「巡りが悪い」というのは、意味合い的に「不運が続いている」という意味での「巡りが悪い」とは根本的に別の意味であろう。
これをごっちゃにして「巡りなんてあるかバカ」と一蹴すれば、「じゃあお前は確率事象でなんでも都合の良い結果を引けるのかカス死ね」という殴り合いの乱闘になる事は必定の理である。
無論、深く考えれば、前者の意味での「巡りが悪い」に対して「巡りなど無い」と言うのもかなり怪しい。運気に周期性が無いかどうかは誰にも証明できない以上、自分の感覚だけで相手をとりあえず否定するのは何かが違う(悪魔の証明だとは思うが、周期性が無いと言い切れないのは確かである)。

もっと面倒な話をするなら、これまで述べた意味とはまた違う意味で「巡り」という言葉を用いている人だっている。
多人数で遊ぶボードゲームを遊んでいる時に時折生じる、「他者の行動の結果による不運」を指して「巡り」と呼んでいる人もいる。
この意味の「巡り」を多人数でボードゲームを遊んだ経験の無い人に説明するのはなかなか難しいのだが、現実の世界を観測していると、「損な役回り」と呼ばれるような物が発生する場合がしばしばある。ちょっと違うのだが、イメージとしてはそれが一番似ている。別に誰が悪いわけでもないのだが、自分が割りを食って悲しみを背負ってしまった状態がここで言う所の「巡りが悪い」に近い。これに対して「巡りなど(ryとか言い出すのは流石にナンセンスである。もちろん、ある程度他人の割を食わないよう最大限の思慮は巡らせた上で準備はするが、それでも割を食って死ぬ時は死ぬ。それこそ、「制御できない不運」の領域にそれはある。

この辺まで考えると、そもそも「巡りが悪い」という言葉に対してわざわざ「巡りなんてあるか」と過剰に反応して文句をつける事自体あまりにもバカバカしい事だと分かるはずなので、「巡りが悪い」「巡りなんてあるか」論争など起きようがないハズなのだが、なぜか事麻雀においてはやたらこの論争が定期的に発生しているような気がする。なぜなんだろうか?

ちなみに、あたいが麻雀をしている時に言う「巡りが悪い」というのは、ほぼ100%「制御不能な不運に晒されている」という意味である。手を変えれば未来が変わるのは確かかも知れんが、それがうまい事行くかどうかも結局は確率論に縛られるし、他人の捨て牌とかからベイズ推定的な何かをしても結局読みが外れるというリスクからは逃れられない。麻雀が強い人ってどこに着目してるんだろうね?
最も、あたいが一番言う「巡りが悪い」という言葉は「他人の割りを食っている」という意味なんだけどね。どれだけ人間の行動を予測しても予測の外から殴られたら人は死んじゃうよ、やっぱり。
そうじゃなきゃそもそもTCGで「地雷デッキ」なんて概念生まれないし(地雷デッキ:使用者数が極端に少なくて誰も対策していないようなデッキだったり、初見殺しを仕掛けてくるようなロクでもないデッキのこと)。
人の心が多少読めればいいのになあ、トホホ。

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