十六夜寮の観測録/秋也の部屋の夕暮れ

前略

この雑文は、3年前にpawooでひっそりと公開されたのを誤字脱字その他諸々を加筆修正してアーカイブした物です。よくもまあこんな可読性も内容の欠片もない文章書いたなお前。

本文

和平世なごみせと呼ばれる世界は、第七明天イェアスティアラと呼ばれる明天めいてんに格納されていた。人間の知る宇宙が「世界」と呼ばれるようになり、その「世界」がいくつも集まって、「並世へいせ」という多元宇宙を構成している事が分かったのは、西暦でいうところの2400年代の事であった。その「並世」すら、いくつか集まって「明天」を為していると分かった時には、既に明天を超えていく為の技術が、競って開発される時代となっていた。「超明天時代」と呼ばれる時代の幕開けであった。

その時代の幕が開けて、160年程が経っているであろう。西暦3112年の今日、日本はこの超明天時代の技術競争において、まだなんとか先頭集団にいる、という事が和平世に示された。明天を単独で超える為の航行機体——かつての情報時代の遺産である、ロケット工学を現代に蘇らせるという斬新な発想を用いた機体の試験飛行が無事に成功したのだ。このニュースを、マスコミはいつも通り、無駄に脚色を加えて報道していた。平凡な大学生である思念波術者の秋也あきやは、そのニュースを自室で来訪者達と共に眺めていた所であった。
「ほーん、あれ成功したのか」
秋也は、麦茶を啜りながらそのニュースを受け止めた。
「先進の技術に追いつくために、太古の技術を持ってくるあたり、如何にも日本らしいやり方だな」
その隣にいた、機械工学を専攻とするわたるが意見を述べた。自分の体ひとつで明天を超える事を可能とする能力者——越境者ストライダーである彼ならば、もう少し何か踏み込んだ事を言ってくれるのではないか、と秋也は期待していたが、その期待ははずれに終わった事がたった今観測された。
「まー、この国もうそこぐらいしか追い付けるとこないしねぇ」
渡の後ろで不思議な舞を披露していた舞花まいかが、妖精のその羽根をぱたぱたさせながら、凄まじく現実味のある言葉を吐いて見せた。実際、日本の科学技術の水準は、超明天科学以外についてはお察しもお察し、という有様になってしまっていた事は最早誰の目にも明らかな事実であった。
「無理もない話だろう」
空想的な存在の舞花が放った、現実味しかないその意見を聞いても、渡は超然としていた。
「科学史はやったけど殆ど覚えてねぇな」
秋也はうわ言のように呟いて自分の立場を明らかにした。
「明らかな衰退が見えたのは、ちょうど2000年代、だから21世紀の終わり頃、だから日本が内戦起こすちょうど100年前くらいだな」
「舞花はその時居たんじゃないのか?」
舞花は、不思議な踊りを、不思議なポーズのまま静止する事で中断した。
「んー、日本が身内で喧嘩してた時はオーストラリアにいたかな」
「へえ、意外だな。オーストラリアでは極東内戦の事はどう報道してたんだ?」
舞花は難しい顔をして唸った。
「んー……あの時は第三次世界大戦の事ばっかりだったしなぁ……ただ、『慣習と現実が喧嘩を始めた』みたいな言われ方はしてたかな」
難しい顔をしている舞花の反対側にある窓から、唐突に声が響いた。
「『慣習と現実が喧嘩』、か。なかなかうまい事を言ったもんだ」
秋也達が窓の方に目をやると、ちょうど翼をしまいながら窓枠に脚をかけている、薄桃色のワンピースを着た吸血鬼の姿が映った。
「どっから入ってきてるんですか」
「やめとけやめとけ、紅音あかねはいつだってこうだろう」
呆れる秋也を渡が冷静に抑えた。
そんな様子はなんのその、と言わんばかりに、紅音は窓枠を潜って部屋の中に入って、さっと日陰に入ってみせた。
「あの頃といえば、労働者連中が仕事そっちのけで毎日毎日飽きずに政府連中の建物に石投げてるような有様でな。それは頭の弱い連中で、賢い奴になると仕事をするだけしておいて客から金取らないっつー戦法に出たり、それだとバレるからって、サクラに金渡しといて事実上身内で延々と金を回しているだけっつー自爆戦法を仕掛ける奴まで出てた頃だしな」
「その頃紅音さん何やってたんですか?」
「山奥でミシン弄ってひっそりしてたよ」
「紅音ちゃんミシンなんて使えたんだ!すごい!」
「俺だって最低限の機械は使えるわ」
「エレベーターの上と下は間違えるくせにくぇっ」
一番最後の「か」を言い終わる前に、紅音の掌が渡の首筋を一直線にひっぱたいていた。
「……」
秋也は何も言わずにその光景をやり過ごしてみせた。
「まぁ、自分なんかは生まれた時には既に多種族時代だったんで分からないですけど、萌芽維新ほうがいしんの時とか結構騒ぎになったんじゃ?」
頃合いを見て、静観を実行していた秋也が次の行動を起こした。

「萌芽維新ってなんだっけ?」
上下逆さまの状態で壁画のようなポーズを取っていた舞花が間抜けな声で聞いてみせた。紅音はげんなりした顔をして、視線の空中遊泳訓練を開始した。
「ほら、2200年代に人間以外の種族がどっと見つかって、それまでの人間一強時代が終わったっていうアレですよ」
「んー……あれかぁ……あれ確か、急進派の妖怪達が、第三次世界大戦の様子を見て『よっしゃ!こりゃ人間滅んだべ!』って、何も調べないまま地上に出て来ちゃって起きた奴だよね」
紅音はそれを聞いて、訓練を中止した。
「あ?吸血鬼の間じゃ、あの戦争で人間の数が極端に減ったのを見て、『これなら存在が露見する前に殲滅できる』って調子こいて、どっかのキャンプを潰したらそこがなんかの拠点で増援が来ちゃって、紆余曲折あってバレたって言う流れになってるんだが」
「俺が習った歴史もそれだな」
渡が首を軽く回しながら言った。
「これは当時を知ってる人——というか、人ならざる者を召喚するのが良さそうだ」
「んー、話してくれるかねぇ。神話の時代から存在を隠蔽できてたのがあっけなくバレちゃったもんだから、変なプライドに傷がついたもんであの頃の事を詳しく話したがらない子もいるから」
そう言って舞花はプロペラのようにクルクルと旋回を始めた。
「幸いにもここは色々な人が来る事で名高い霜川秋也の部屋だ、ほっておいても誰かしら来るだろうよ」
渡が、目の前にあった水入りのコップを手に取って、くい、と傾けた。ちゃぶ台の前にちょこん、と座っている秋也の後ろあたりの、何もない空間を眺めていた紅音が、不意に声をあげた。
「種族が被ってるが、あんたの彼女あたりに聞いてみたらどうだ?」
「俺の彼女……?」
秋也は、頭上にクエスチョンマークを召喚してみせた。
真惑香まどかさんの事言ってますか?」
「だぁりん、ちゃんと私の事だって分かってくれたんですね?」
不意に後ろから突き刺されたその声に、6センチ程跳び上がりつつ170°程水平に回転する妙技を披露しながら、秋也が後ろを振り返った。秋也が振り返った所には、見た目上何も無いように見えたが、秋也は手の甲を前方に向けて、そのまま腕を床と水平にした状態で、その空間に向けて進める。すると、その腕が途中で歪に歪み、進まなくなったのを周囲の存在は観測した。
その時、急に秋也がびくっ、と肩を震わせて後ろに後退りしようと脚を跳ねさせた。だが、空中に静止した腕が秋也の移動を封じた。バックステップに失敗した秋也の動きがひと段落したところで、その何も無い空間に女性の頭が、ある面を通じて、まるでコピー機から出て来るかのように現れ、次第にその姿は首、肩、胸、腕と順番にその実体を表し、6秒ほどでその全身が誰の目にも映る形へと変貌した。

見れば、深い紫の髪に、黒主体の服を身に纏い、後頭部に黒いヴェールを身につけた女性が、秋也の腕をしっかり捕まえてしまって、前からでも目を見張るほど豊かな胸に埋めてしまっているのが分かった。その瞳は秋也の瞳を微動だにせず見つめているが、その瞳の純真さは、純真と呼ぶにはあまりに危険過ぎる物であった。当事者でない渡は、その目を見てある種の恐怖を少しだけ感じた。
「真惑香さん!いつから居たんですか!」
「えぇ、ずっとですよ、だぁりん、ずっとです」
「2回言わなくて良い!」
「確かに、俺がこの部屋の窓に着いた時には既に居たな」
紅音がすました顔で言ってのけた。
「私がお手紙届けに来た時には居ましたねぇー」
プロペラ回転を続けながら、舞花が補足した。
秋也は、腕を確保されたまま、渡の方をきっ、と向いた。
「俺は分からねぇよ、ただ最初に来た時になんかやたら色んな気を感じるなぁ、とは思ったけど」
「なんで2人とも居るって言ってくれないんですか!」
「んー、真惑香ちゃん幸せそうだしいいかなぁって」
「俺も、まぁ別に黙ってても問題ねぇしなぁって」
紅音と舞花は適当に言って質問の弾丸特急を通過させた。
「そ、そんなぁ」
「まあまあ、だぁりんったらそんなに怒ってはいけませんよ」
「誰のせいですか!だから、来ちゃいけない訳じゃないからお願いだから私の目に見えるようにして分かるところから入って来て下さいって頼んだでしょう!」
「あ、そんなお願いはしてたんだ」
「腰抜けの秋也の事だからされるがままになってると思ってたぜ」
秋也の外野は常に無慈悲であった。

「しかしなんだ、ファンシエルは本当始末悪いというかなんと言うかって感じだわな」
真惑香に襲われる秋也を戦略的に見捨てた紅音は徐に呟いた。
「ファンシエルって、真惑香さんの吸血鬼としての名前ヴァンパイアコードだっけな」
「あぁ。よし渡、俺の名前を言ってみろ、言えなければ今ここで俺に献血しろ」
「りーふじーん」
舞花がくるくる回り続けたまま無意味なフォローをした。
「えー……ルナシィ」
「あんだよ面白くねぇなぁ」
「こっちはたまったもんじゃねぇわボケ、それで、何がどう始末悪いって?」
紅音は、左上を見ながら喋り始めた。
「あー、ほら、まず元がめっちゃくちゃ強え」
「確かに」
「それでいて、デタラメなサイコキネシスをメインにしたサイキックときた——ただでさえ、吸血鬼のフィジカルはイかれてるってのにだ、まずこの時点でその地方のエリート程度の対吸血鬼士では勝負にならん」
「それは紅音も変わらねぇだろ」
「違う、それが違うんだ。俺は魔術を使わない訳じゃないが、基本はフィジカル、つまり撃術で強引に殴り倒してる所が強いから、数繰り返せばある程度対処ができる」
「しかしだな、あいつは見ての通り、電磁波を捻じ曲げて自分の姿を消し飛ばす事ができる。これは波長によらねぇ。故に、電磁波をぶつけようがそんな事は関係が無い。例えγ線をぶつけようが長波をぶつけようが、関係なく捻じ曲げられて奴の体をかわしていくからまず古典的な機術では観測ができない」
「古典的な機術、電磁波と中心とした物理学と数学によって形作られる、第三次大戦前の主流となったものか」
渡が紅音の声に応じた。
「古典機術に魔術や霊術を組み合わせた現代機術に比べれば、性能はガタ落ちだが、用途を限るならこれ程安く楽に作れる物はないしな——で、必然的にしっかりした装備を要求される。だが、それで居場所が分かったとしても、サイキックであるあいつ相手では、位置の情報が意味をなさない」
「テレポート出来ちゃう相手が1秒前どこにいたかなんて知った所で、1秒後どこにいるかなんて予測できないしねー」
飽きもせずに回っていた舞花が、回転速度を落としながら言った。
「それでいてほら、あの体だろ?俺の因子だとこういう体になるから、とても色仕掛けなんてできやしねぇが、あれなら普通の人間くらい簡単に魅了して、その隙に吸血する事だってできるわけだ」
紅音は、体型だけ見たら肩が張っていない事を除いて殆ど男性のそれに近いその胸に手を当ててから、真惑香の方に手の先を向けて見せた。

「紅音ちゃんの因子は、運動機能に極振りなんだっけ」
先程よりかはゆっくりと回っている舞花がそれとなく質問を投げた。
「確か、運動機能か魔術機能、妖術機能かの其々に発達度が割り振られるが、それが吸血鬼の持つ因子によって異なる、だったか?」
「はぁー、そうですね、私は妖術機能と魔術機能に強く振られ、運動機能には控えめに振られる因子の持ち主というわけです」
秋也を襲撃していた真惑香が、秋也の右肩に絡みつくような体勢になりつつ補足をした。秋也はそれを受けて、自分の体勢を整え、真惑香から不要な刺激を受けないように真惑香の体を支えるような準備をして、言った。
「でも、吸血鬼の言う『運動機能控えめ』って、人間と比べ物にならない代物じゃありませんでしたっけ」
紅音と真惑香は、同じリズムでふむふむ、と頷いて見せた。
「俺が知ってる——吸血鬼の中でって意味な——一番遅い奴でも、100mを9秒前半乗るかどうかくらいで走れる」
「ええ、加えて、それが何キロ、何時間、という単位で持続した筈です」
「吸血鬼怒らせたら謝れっていう常識が出来上がるわけだ」
渡はうんうんと1人で納得をした。
秋也は隣をちらり、と一瞥して気まずい表情を浮かべた。
「……真惑香さんはどれくらい早く走れるんですか?」
「はいだぁりん、私はだぁりんの為なら幾らでも早く走って——はい、時空の狭間でも駆け抜けて行く事ができます」
「……私のためじゃなければ?」
頭を抱えながら再度問う。
「はい、前に遊びで調べて頂いた時はその距離を3.83秒で走りましたね」
舞花がそれを聞いてピタリと停止して、こてん、と大の字になって部屋の奥の方へと倒れ込んだ。
「……それって速さで言うと?」
秋也が紅音の方を向いた。
「……俺に聞くんじゃねぇよ、お前理学部だろ」
渡がその隣で、計算式を空中に板書し、答えた。
「……秒速約26m……切り上げて時速約94km」
「時速94……キロ……?」
秋也は、隣にくっついている、女性の魅力の洪水警報を体現したかのような存在が、地上走行状態の高速車両に匹敵する速度で走ってくる様を想像し、その顔を青白くさせながら、正しいのかどうなのか確認する余裕もなく、屍が発する声のように音を漏らした。
「真惑香さん、ところでそれって全力で走って、の記録ですか?」
「いえいえ、あくまで遊びだったので、人間の皆様が言う所のジョギングのようなテンションで、本当に穏やかに走らせて頂いた時の記録がそんな記録でしたね」
「(あぁ、どうしようか、じゃあ俺はこの人が怒ったとしても逃げる事だけは、本当に、絶対に、できない訳だ)」
「だぁりん、でも私は、だぁりんがそう思っても、私の事を『この人』と思ってくれる事だけで十分嬉しいですよ?」
「お前は優しいな、秋也。ファンシエルの事化け物だとかストーカーだとか思わないでいてやれるのか」
秋也は今以上にその頭をがくっ、と傾けて見せた。
「(そうだ、真惑香さんのサイキック能力にはテレパシーも含まれている事をすっかり忘れてた)」
「だぁりん、そろそろ覚えて下さいね?」
「記憶していよう、とは思っているんですよ。でも、テレパスされてるって事を普通の事として記憶しておくのって、ものすごく矛盾を感じてしまってなかなか覚えられないんです」
「目の前の奴に自分が何考えてるかバレてるなんて普通考えたくねぇしな」
紅音がそんなフォローをした折、壁に掛けてあった霊機波時計が18時を知らせる為に、軽快なチャイムを2回程鳴らした。

「ん、そんな時間か」
「およよ、そろそろ寮母さんのお手伝いしにいかなきゃ」
舞花がひょこり、と起き上がって、玄関の方へと身体を向けた。
「あ、お邪魔したね。またあとでね」
「また来るんですか」
「まあ、そのうちそのうち。ほいじゃあねぇ」
舞花は両手を挙げて大げさにふりふりと手を振ってみせつつ、玄関を開けて廊下へと出ていった。
「お、これはなし崩し的にみんな居なくなる奴だな?」
渡が立ち上がりながら笑顔を見せた。
その明らかに矛盾した様子を見て、秋也が異議を唱えた。
「って、お前もそれ帰る奴だろうが」
「どうせまた暇になったら遊びに来るって」
「はいはい、お待ちしておりますよ」
秋也は呆れながら、笑顔で返してみせた。
「うし、じゃ俺も遊びに行ってくるかなぁ」
紅音も、少し伸びをしてから、窓の方へと向かった。
「そして窓から出ていくんですね」
「あぁ、窓から入ったからな」
窓枠に脚を掛けた所で、吸血鬼の翼がひょっ、と紅音の背中から飛び出す。
「それに、屋内が行き先でもねぇしな」
「まぁルナシィ、簡単なワープかテレポートくらいは覚えてみたらどうでしょう?」
紅音は露骨に面倒臭そうな顔をして振り向いた。
「あー、流石にパス。飛んじまった方が俺の性に合う」
そのやり取りを聞いていた秋也が不意に湧いた疑問を口にした。
「……ワープとテレポートって何が違うんだ……?」
「あーっと!それは面倒な話が始まる奴だ!俺はさっさと出かけてくる!」
「え、そんな面倒な事なんですか?」
「ちゃんと理解しようとすると面倒なだけだ――じゃあな、秋也、また夜中にでも血を吸いに来てやるよ」
「なるほど、笑顔で門前払いします」
「あはははは、冗談だ、それじゃあな」
そう言って、紅音は勢い良く、夜闇に包まれつつある夕暮れの空に飛び出して、あっという間に見えなくなってしまった。後には、ポカンとする秋也と、相変わらずの笑顔のままでいる真惑香が残された。

「うふふ、二人っきりですね、だぁりん」
「私はなんで二人っきりなのかよく分からないですけどね」
秋也は窓を閉めて施錠までして、レースのカーテンを閉めながら答えた。
「そりゃもう、私はいつでも二人っきりですから」
相手の世界についていけなくなった秋也は、諦めたような表情でちゃぶ台のコップを片付けながら聞いた。
「真惑香さんはこの後は?」
「ええだぁりん、私は特に何もございませんので」
「んー、何もない、かぁ……」
「だぁりん、何か困る事が?」
秋也は、コップを流し台にある小さな槽に無造作に入れると答えた。
「ちょっとコンビニに出かけて来ようかと思ったので」
「まあ、じゃ私はお留守番ですね」
「いやおかしいおかしいおかしい」
天を仰いだ秋也の姿を見て、真惑香はくすくすと笑いながら立ち上がった。
「いいえ、だぁりん、ちょっとからかっただけです。ごめんなさい。じゃあ、だぁりんが戻ってくるまで私は部屋に戻ります」
「真惑香さんは何か買うものとか無いんですか?」
「えぇと――何かあったような無かったような――どうしてでしょう?」
「あー、いや……」
秋也は、聞いておいてその真意をぼやかした。真惑香は、かくん、とその首を斜めに傾けてみせた。2人の間を、沈黙が暫し散歩し、数秒で部屋の壁から退場した。沈黙を追い払ったのは、照れくさそうな秋也の声である。
「何かあるなら、どうせだし……一緒に行きませんかって……なんか、あの、そんな感じです」
「はいだぁりんだぁりん!行きます!行きますとも!」
真惑香は、傾けていた頭を——顔を真っ赤にしている点を除いて——元に戻して、勢いよく立ち上がりながら少し早口気味に言って、その上、ぎこちない様子の秋也の左手を、両手で包んで、秋也の胸の高さまで持ち上げた。
「その……あの、はい」
何がどう「はい」なのか本人にも良く分からない状態が暫く続くと、2人の間には、何と形容するのが正しいのか、そもそも雰囲気と呼ぶべきかどうかも分からないような、奇妙な気分とも言うべき精神状態が展開された。追い払った沈黙が舞い戻ってきてから暫くして、秋也の方が口を開いた。
「えっと、これはその、一体いつまで握られていれば良いんでしょうか?」
「——あ、あら、ごめんなさい、だぁりん。嬉しくて、つい」
真惑香は、慌ててその手を離して、決まりが悪そうに、腰のあたりに両手をさっ、と隠した。
「あっ、いえ、謝らなくて良いんですよ——ただ、ちょっとドキッとしただけなんで」
秋也は、握られていた手を、握られていなかった手と一緒にして、右の掌と左の掌との間で、熱がやり取りされるのを感じた。その状態のまま、少しだけそっぽを向いた。再び、如何とも言い難い雰囲気が2人の様子を伺ってから、秋也がどっかを向いたまま口を開いた。
「……真惑香さんは、自分のどこがそんなに気に入っているんですか?」
「そうですね、秋也さんの、そういう所、です」
名前で呼ばれて秋也は、おや、という顔をして真惑香の方を見た。秋也は、真惑香が握り合っている自分の手を見ている事に気付いて、はっ、と両手を離してから赤面した。
「ふふ、だぁりん、それじゃあお出かけしましょうか?」
真惑香は、意地悪っぽく微笑んでから、秋也の部屋を出て行った。秋也は、もう少しだけ、この真惑香という女性の事を知りたい、と思いながら、部屋の鍵を持って、玄関へと向かって行った。

廊下に出ると、真惑香の姿は何処にも無かった。首を傾げつつ、鍵を念波で差し込んでくるり、と回してから手元に引き戻してくると、てこてこと下り階段の方へと向かった。階段を降りていくと、その途中で黒猫が階段をタッタカと登って来ている事に気付いた。目を凝らし、その首元に小さな十字架が付いているのを認めた秋也は、黒猫に向かって遠くから呼びかけた。
黒洲くろすー、真惑香さん見なかったか?」
「にゃお」
黒洲は、一度だけ小さく鳴いてから、自分が今登って来た階段の下の方を向いて、秋也の方をちらっ、と見て、すぐにその頭を階段の下の方へと向けてみせた——つまりは、下へ向かった、という事であった。
「おっけ、ありがとう」
「にゃぁ〜ぉにゃん」
「何だよそれは」
黒洲は、ご機嫌な足取りで階段を登って行ってしまった。一階まで降りて玄関を見ると、外に真惑香がいる事に気付いて、慌てて外へと駆け出した。
「だぁりんったら、いつも私を待たせるんですから。いつになったら告白してくれるんですか?」
秋也は、その質問をもう何度もされていて、どう答えるかも決めていた。
「もう少し、真惑香さんの事を知らせてからにさせて下さいよ」
「——だぁりんったら、いつもそればかりなんですから」
真惑香は、少し拗ねたように、いつも通りの反応を示した。
「でも、もしだぁりんが私を選ばなくても、だぁりんが幸せなら私は構いませんから」
そして、これまたいつも通りの台詞が繰り返された。
「……少なくとも、自分は真惑香さんのそういう所は大好きです」
「ふふっ、そう言う所まで同じなんですね」
「真惑香さんこそ」
2人は、くすくす笑いながら、暗くなりかけている道を歩き出した。
「でも、だぁりんもなかなか奇抜な人ですね」
「真惑香さんにだけは言われたくないですよ」
「私みたいに、得体の知れない吸血鬼と、嫌がらずに接して下さるんですから」
真惑香が笑い終えた所で、秋也は不意に、普段とは違う事を言った。
「ただ、もしどうするか決めたら、その時は自分から言わせて下さい」
真惑香は、少しだけ目を見開いてから、言った。
「えぇ、待っていますよ、秋也さん」
「ありがとうございます」
「——さて、お部屋に何買って帰りましょうかね?」
秋也は、夜に誰が何人来るか、考え出した。

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