八術八相の龍記録/再編外域

礫破界れきはかいの空は、いつだってこんな具合だ。薄紫とも薄桃色とも言えるような、中途半端で誰にもその在り方を断定されない、曖昧な顔色をした雲で覆われただけの無機質な空だ。陽と呼ばれる物が昇っても落ちても、所詮はその空の明度が変わるだけ。無機質で曖昧な在り方をしている点については、根本的に変化が無かった――まるで自分の在り方と同じじゃないか。浅瀬に積まれた瓦礫の小島の上で、少年は誰に向かって言うでもなく零した。自分も、この空と同じ。多少の変化があるとはいえど、その変化の振れ幅などたかが知れている――妖怪として生まれている事さえ除けば、自分が今腰掛けているこの瓦礫たちと同じような物だろう。もしかしたら、どちらにせよ自分は既に瓦礫同然の存在でしかないのかもしれない。ため息をつき、だらりと瓦礫に這わせた自分の足元を睨みつける。所々に見えるズボンの穴が こちらを睨み返していた。不必要な腹立たしさを自分から受け取りに行ってしまったと後悔して、空を再び見上げた――雲の上に浮かぶ巨大な、見慣れた姿を見つけたのはちょうどその時だった。
「……あぁ、また面倒くせぇのが来た」
どこかに吐き捨てるように呟くと、怠惰な脚に力を込めて膝を立てて、薄紫の空を映す水面ができるだけ薄い所へひとっ飛びに着地した――奴がどういう風に現れるにしろ、瓦礫の上で待ち受けるよりかは都合がいい。さて、今回はどんな風に現れるのか。答えは程なくして目の前に現れた。雲の上の影は急激にその向きを真下へと変えたかと思うと、周囲の雲を巻き添えにしながら地面へ向けてその巨体を翻した。身勝手な影に翻弄された雲が解けていくと、さめざめする程美しい黄金色の髪と、巻き込んだ雲の色によく似た薄紫の衣――それよりかはより鮮やかな色をした鱗と、病気のようにも見える白い素肌をした、竜人の姿が目に入った。なるほど、この女はいつだって自分の在り方を変えようとはしない――いや、この女神、と呼んだ方が正しいのだろうか――ともかく、この不変の存在を地上から睨みつけてみせた。自分の身の丈の数十倍はあろうかという体が、猛然と地面に向けて突っ込んでくる――減速するつもりが毛頭ない事は誰の眼にも明らかであった。辟易しながら、自分の足先に妖力を回す。
「こいつにもうちょい知性がありゃ良かったんだがな」
そんな罵詈雑言は巨体が空を切る音に掻き消され、おそらく届くことを願った存在の耳には入らなかっただろう。その体が地面に手をつけようとその巨躯を翻した瞬間に、張り詰めた妖力を弾けさせた。地面が爆ぜて激しい水しぶきを上げる中、小さな体が一つ、雲の下の空へと飛び上がった。空へ弾けた水滴が描く放物線と同じように、美しい軌跡を描いて周囲に咲き誇る飛沫の花びらとともにゆっくりと舞い降りていく――クソッタレ、おかげでこの使い方にもすっかり慣れちまった、と悪態が脳内を少しだけかすめて消えていく。視線の先には自分の姿を窺う、宙に舞う竜神の姿がある。どこか腹立たしげなその眼を見ても、特に思い出る事はないという事実を確認して、先程から数十メートル離れた浅瀬に着地する。決して小さくはない飛沫の花が開き、一瞬とは言い難い間咲き誇ったのを見届けてからだろうか、それくらいの時を感じた後に遠くから声が響いた。
「――貴様、やったな」
小さな妖怪はふん、とわざとらしく鼻を鳴らしてからほくそ笑んだ。
「何がだ」
大きな竜神ははっ、と面白そうにその顔を歪んだ笑顔で満たして見せた。
「我の茶葉を入れ替えたのは貴様だろう」

顔は笑っていても、大真面目な口調でそんな事を宣う竜神を見て、妖怪は声を上げて派手に笑ってみせた。竜神は応えるように、表情の歪みを増して見せた。
「答えろ、ヴィセット」
「天下のイヴ様相手にそんな事やるバカが俺以外にいんのかマヌケめ」
「なかなかほざくではないかクソガキ」
ヴィセットは先程まで座っていた瓦礫の山に手足を伸ばしながらやり返した。
「てめぇが悪いんだぞクソッタレ、てめぇが『アムルの茶は色が悪い』とか抜かして勝手に色を変えちまったんだからな」
「黙れ虫けら、貴様に我の崇高な感性は理解できん――あんな趣味の悪い黄緑の茶を誰が良いと思うのだ」
「いいじゃねぇか、今アムル茶淹れたらてめぇの好きな病人の顔面といい勝負の白けた紫の茶ができるようになったんだからよ――てめぇの嫌いな発酵茶と同じ色になったけどよ」
「だからだろう、発酵茶は味が好みではないが色は素晴らしい、だから味の良いアムル茶の色をその色と同じ色に変えてやったのだ――今この世にこれを超える茶など存在せんわ」
イヴは鱗で覆われた龍の両手を拡げて誇らしげに称える。その馬鹿面を、瓦礫の山を登り終えたヴィセットが眺めて嘲笑った。
「なるほど確かに完璧な理屈だ――まぁ、余ったその黄緑を発酵茶の方に移さなかったのは失敗だったな――そうすりゃ、俺がアムル茶の入れ物と発酵茶の器を入れ替えておいた事にも気づいただろうにな」
「雑魚が、口にする前に気づいたわ」
「器から取り出す時に気づけバカ、だからお前は愚神なんだよ――一丁前に力ばっかり持ってて、まともな使い方を知りゃしねぇ」
「力も無い奴が知ったような口を利くな――お前に力の使い方の何が分かるのだ、我の力の使い方に誤りなど有りはしない」
妖怪はうんざりしたように息を吐き棄てた。
「じゃあ、その完璧な貴方様に刃向けようって輩がいんのはどう説明すんだよ、てめぇが完璧なら少なくともお前に文句言おうなんて奴居ないはずだろうが――それに、少なくとも俺みたいな奴は生まれちゃいねぇ、違うのか?」
イヴはどこか辟易したように、ヴィセットの真似をするかのように息を吐くと、何とも緩慢な動きでその体を腰から順に地面へと横たわらせていった。体の起伏の大きさもさる事ながら、体躯の単純な暴力によって彼女の周りの瓦礫が押し込まれたり押しのけられたりして粗雑な音を周囲に響かせる。それらの音が天の彼方へ消える頃には、瓦礫の上のヴィセットの真横にイヴの頭が転がっていた。
「貴様の小さな頭ではその程度の考えにしか至らぬのだろうな」
「てめぇいつだってそうしか言わねぇじゃねぇ――って!」
イヴの巨大な指先が、立っていたヴィセットの頭を小突いて彼を強引に中腰にさせた。顔をしかめた後、彼女の意図を察して不機嫌に瓦礫の上に腰掛ける――が、すぐに意趣返しと言わんばかりに寝っ転がって、片膝を立てて生意気な表情を全面に押し出した。
「良いか、ヴィセット。完璧な物を創る、というのは実はそんなに難しい事ではない。下手すれば、貴様にもできるだろう」
「いい加減な事抜かすな愚神が、妖怪の身で完璧な物を創るなんてそんな簡単な事じゃねぇ。大体、何を以て完璧とするかだって色々だろうが」
ふてくされて寝返りをうったヴィセットを見て、イヴがすかさず声を上げた。
「では貴様の言う完璧とはどういう物を言うのだ?」
「誰もに救いがある事だ」
「我は貴様の救いだろう」
「そういう事を言ってるんじゃない――言い方を変えれば、救いという概念がそもそも要らない事だ」
堰を切ったようにイヴは笑い出した。
「荒唐無稽だな、ヴィセット。救いは悲嘆と苦痛に与えられる物であり、悲嘆と苦痛は喜びと楽しみがあって成り立つ物だ――救いを否定するのは悲嘆と苦痛を否定する事で、それは逆説的に喜びと楽しみを否定する事だ。救いの無い世界は、負が無いのと同時に正も訪れない世界を肯定する事になる――例え負だけを否定し、零と正のみを許容したとして、人はその間に本当の意味での零を見出し、零と正の世界を負と正の世界に変えてしまうだろう――我がどれだけ負を否定し続けたとして、行き着く先は本当の意味で零だけが存在する世界となるだろう」
「てめぇのその急に長ったらしく面倒な事言い出す癖どうにかしろよ、言ってん事は分かるが一瞬何の事か分かんねぇんだよ」
悪態を付きながら、寝返った体を元の向きに戻しながら応える。
「貴様が分かるならそれで良かろう、我は今貴様にしか伝える事が無いのだからな」
巨龍はどこか含みのある笑みを鼻先の少年に向けた。それを見た少年はより怪訝な顔を相手に見せつける事にした――全く、やっていられない、とでも言いたげに。その言葉を口から出す代わりに、ため息をついてヴィセットは立ち上がり、言った。
「――それでてめぇはなんだ、それだけ言いにこんな所まで来たのかよ」
「我はそんな下らん事でこんな所まで足を運ばん」
「だろうな」
「――ただ、貴様がどこに来ているのか気になったのでな」

その言葉に、ヴィセットは不思議な顔をした――この愚神がそんな事を言い出すのは初めての事だ、何の意図があっての事だ――妖怪の身でその意図を量る事はできそうにもない、と考え、仕方なく少年は答えた。
「この辺は俺の生まれた所だ、てめぇも知ってるだろ」
「サドゥガンド地区であろう、我もそれくらいは記憶にあるわ。かつては漁港として栄えていたが、どういうわけか衰退して貧民街の一つとなったのだろう」
「……俺も実はその辺の詳しい事は知らねぇ。ただ、海産物がまるで獲れなくなっちまったって話は道端の爺さんから聞いた事がある――なんでも、密漁者が出まくったとか身内の小競り合いが発展してお互いに足引っ張り合った結果魚が皆死んじまったとか――色々聞いたが本当の所はハッキリしねぇ」
瓦礫の上から故郷の変わり果てた姿を見渡しながら続けた。
「そんなこんなで、俺が生まれた時には既にここは廃れちまってた――それが理由かは知らねぇが、ここが賊の討ち入りに遭った時にはほとんどのやつがどっか遠くに逃げちまった――俺を産んだ奴らもな」
「ふぅん……言われてみると、貴様が我の眷属になるまでどういう道を辿ってきたのかちゃんと聞いた事がなかったな」
「言う気にすらならなかったからな――思い出すだけで虫唾が走るような事、なんでてめぇから思い出さなきゃならねぇんだって話だ」
「何ら間違いの無い事だな、ヴィセット。そんな事はさして重要ではない」「他者の在り方を好き勝手弄ぶてめぇに人の過去を重要じゃねぇって断じられるとなかなかに腹立つな」
少年は心の内の不愉快さを顔に塗って相手に向けた。
「では、貴様の過去はそんなに重要だったのか?」
龍神は矮小な妖怪に無慈悲に喧嘩を売りつける。その様子を見て孤独な少年は困惑したように息を投げ捨てた。
「そりゃ、てめぇにとっては重要じゃねぇだろうよ――下手すりゃ、俺にとっても最早重要とは呼べない物になっているのかもしれん」
「ふぅん……なかなか面白い表現をするではないか、続けろ」
――こいつがこんなに俺の事について知りたがるのは珍しい。そんな風に思いながら、ヴィセットはさっきとは違う向きを向いて、ゆっくりと腰掛けて空を眺めた。そして、ゆっくりと意識を自らの足跡に向け始めた。

――考えてみれば、自分はそもそも望まれて生まれたのかどうかさえ怪しい。気がついたらここに居て、その頃には最早秩序なんて物がどこかに消え去っていた。生命同士で決めたはずのルールは瓦解し、本来あるべき正当な裁きも、裁く者を先に再起不能にしてしまえばお咎め無しというやったもん勝ちの狂気だけがこの街を支配していた――そんな有様であったからか、この街はそれ以上の力で殴りつけられたのであった。
「多くの街を荒らしてはまた次の街を荒らしに行く、蝗みたいな賊の一団がいるって話は俺がいた頃から既に噂にはなってたんだ――俺は正直、自分の目で見るまでは眉唾ものだと思ってたんだけどな」
「我の手の掛からん所は大概無法だとは分かっておったわ――無理もあるまい、礫破界この世界は歪みが大きくなり過ぎてしまったのだ」
ヴィセットは自分のズボンの穴を見下ろして諦めたように息を吐いた。
「自由ってのも考えものだな――金を稼ぎたい奴は好き放題稼いで、その金を貯め込み続けて世に流そうとしなかったせいで回る金が無くなっちまった。そのせいで最古の約束事だったはずの金なんて制度はどこへやらだ――全く、『光り続ける石は転がり続ける石金は天下の回りもの』とはよく言ったもんだ」
「良い事ばかりの存在、という物は基本的に存在しないからな。どのような治世を敷こうが、どのようなシステムを作ろうが、規則を定める以上必ずそこには穴がある――まして不完全の賜物とも言うべき人が創るならば尚の事だ――そして規則を定めるという行為の最大の穴とも言うべき事がこれだ――規則は常にそれを使う者にとって都合の良いようにしか創られん」
妖怪は大笑いして天を見上げ、その首を傾けて龍神の方へ向けた。
「本当てめぇはいけ好かない奴だが、神を僭称するだけあってちったぁ物事の本質ってもんを見据えてやがる――全くその通りだ、権力者はてめぇらが手にした物を如何にして正当化し、規則で守るかという事ばかりに脳漿を絞って、世の中のもっと本質的な歪み、過ちを直そうって所を完全に無視しやがった――その成れの果てがこれと来たもんだ」
「そこまで分かっていて、我の行いに過ちがあるとほざくのか?」
龍神は不気味に微笑んで、その見開いた瞳を見せつけるようにヴィセットの前へと体をずらし、言った。少年はその巨大な瞳を真っ向から睨みつけて返した。
「『正しかったか』、と問われれば否だろうよ――『間違っていたか』、と問われても否なのが面倒くせぇ所なんだけどな」
「他に何ができたというのだ? 持つ者と持たざる者、この隔たりが大きくなりすぎてしまった為にできた溝は、持つ者から奪い取る事でしか在るべき姿に戻せん――持たざる者に何かを与える事は、既に持っていた者が理由をつけてそれを奪い取り、隔たりを広げる結果しか生まぬからな――それこそ、奪うなどという不遜な真似ができんくらい奪い取ってやらねばならぬ」
イヴは自分の瞳を睨みつける小さな双眸を見つめ返した。
「人が他人の物事を管理しようなど、人が持つには過ぎた力だ――そんな物は権限ではなく傲慢と呼ぶ方がお似合いだろう。人如きが何かを持つなど驕りの成れの果てでしかあるまい。我がそれを分からせてやっただけの事だ」
「その結果としてバカでかい都市がいくつ滅んだんだ馬鹿野郎」
「細かい街にはなったが結果としてまとまりの良い都市に戻ったではないか、何が問題なのだ」
呆れを通り越した何かの感情を顕にしながら、少年は天を仰いだ。様々なベクトルの感情が混じり合ったせいで逆に分かりやすく無意味さを示した息を空へ向けて放り投げた後に、言った。
「外面がいくら変わったところで、根っこが変わらなきゃ同じ事の繰り返しになるだけだって事を言いてぇんだよ――というか、俺はてめぇが"再編"しゅくせいを繰り返すたびにその事を言ったはずだ――大体、てめぇこそなんでその事が問題だと分からねぇ」
ヴィセットは相手が何と言い訳をするか確認する為言葉を切った――が、珍しい事にイヴは何も言って来なかった。代わりに、その瞼をほんの少しだけ、ゆっくりと、下ろして見せた。
「――考え方を改めさせなきゃ、過った奴を消した所でまた別の奴が過ちを犯すだけだってんだ」
龍神は奇妙な事に押し黙ったままであった。ただ、見開いていた瞳を、少しだけ閉じてみせたが、少年の瞳にそれはよく映らなかった。
「間違ってる奴をひっぱたくのは単純だ――間違った時にひっぱたきゃそれで終わり、それだけの話だ、確かに分かりやすいし、ひっぱたく側が間違う事もねぇだろう。だが過ちを正す方法としては間違いだ、大体過ちをひっぱたくなんていうのは――」
「言うな。貴様の言いたい事ぐらい分かる」
「……だったらなぜ分からねぇ……」
頭を伏せた少年の姿を認めて、神は徐に口を開いた。
「……ヴィセット、貴様は聡明だ。言えば分かるしやらせれば何だかんだやってのける。貴様自身で考える事もするし、必ずしも我の言いなりになる事もない。ここが全てお前のような人で溢れていたのなら、そもそも我が何をする事もなかっただろう。だがヴィセット、生命はそんなに賢いものばかりではない」
初めて出会ってから今の今まで、まるで聞いたことがないイヴの物言いに、思わず顔を上げる。相手はその動作を気にも留めず、続けた。
「愚者がいるから賢者がいるのであり、話す事に長けた者がいるから聞く事に長けた者が現れるのがこの世の道理だ。世の物事というのは、大抵ブレ・・があるから個性として評価できるようになるものだ。しかし自分が何を善しとして生きるか、これだけは他人の何にも依るようなものではない――自分の正義を他人に預けるような者は初めから問題外だ。正義に誤りはないにしても、大多数の正義と相容れない正義は間違いなく存在するであろう。人が正義を貫く生き物であるとするならば、人が何の導きもなく相容れて存在する事など原理からして不可能だ」
「その結果起きる事は何なんだじゃあ、結局は力を持つ者が自分の正義を他に押し付ける事だろうが! てめぇのやってる事は結局人と同じだ――正義を押し付ける側に立ってるのが人か神かの違いしかねぇ」
「その違いが重要なのだ、ヴィセット」
龍神は気味悪く感じる程に、諭すように語りかけた。
「確かに我の行いも人の行いと大差ないと言えよう――いくら我がそれを世の道理だなんだと唱えようと、それだって言ってしまえば我の正義だという事にも成り得るだろう。しかし、押し付ける側と押し付けられる側の本質的な違いが地位や数の多さだけで決まるとなれば、押し付けられる側が何を考えるかなんていう事は貴様の頭でも十分予見できよう」
妖怪のうちの一人は、感情のやり場に困って視線をそこいらに放り投げた。そうして一頻り目と頭をぐるりと回した後で、何かを諦めたように再び腰を乱暴に下ろし、視線も同じように投げ捨てた。
「どのような過程を辿ろうが、どこかで力が出てきて殺し合いになるのが関の山という物だ――それで軍配がどちらかに上がればまだ良いが、どちらも滅ぶなんて事になればそれこそ誰の為の争いなのか分からぬ。生命という物は、死ぬまで正義などという何の形もない物・・・・・・・のために生を懸ける愚者に過ぎん――であるならば、横からどうにもならん形でどんな正義も全てなぎ倒してしまう他これを救ってやる方法など無かろうて」
「そんなんがてめぇの齎す救いか? 不条理の間違いじゃなくてか?」
「貴様等の言う幸せなんて物も不条理の別の顔に過ぎんだろう。突然起きたその事が、自分にとって都合が良いか悪いかで幸福になるか不幸になるか変わっているだけだ。実際、我が現れてこの世界をまとめ上げると言い出した時、貴様等のうちの一部は喜んで我の手中に収まったではないか――貴様等から言わせれば世界の敵とも言うべきこの我に、だ。いまある世界の秩序が根底から覆されかえないという一大事にも関わらず、貴様等は団結するどころか分断し、自ずから貴様等を滅ぼしたではないか。共通の敵が出現したにも関わらず団結できないような世界のどこに秩序を認めろというのだ?」
ヴィセットは極めて大きく、息を吸い、長く、それを吐いた。
「……分からんじゃねぇな。確かに、てめぇが最初にこの世に喧嘩売った時、反吐が出る程喜んでた連中も居た――あぁ、行き詰まった連中だ――力を持つ事も許されず、真っ当に生きる事も許されなかった連中だ。一部の奴に都合よく作られた秩序の被害者連中だ。そういった連中はあの腐った秩序をぶっ壊してくれる事に期待して、あんたに付いて行ったんだろうよ。だけど、そうだったとしても、俺にはどうしても分からない事がひとつあるんだ」
誰かに届く事を期待するかのように投げられた言葉を受け止めてから、イヴはその先の嘆きを静かに待った。
「なぁ、奴らがあんたに望んだ事って、一体何だったんだ?」

少年は龍神の様子を見て、更に続けてみせた。
「自分達の味方をしてくれない秩序を壊して、自分たちの味方になってくれる新しい秩序が生まれる事だったのか? いけ好かない奴らの足場を掬って、奴らが自分達と同じ立場に墜ちてくる事だったのか? ――それとも、何もかも真っ更にして始めっからやり直す事だったのか?」
「どれでもないだろうな――もっと正しく表現するなら、それらは全て別の願いが具体的な形をとって現れたものだというだけにすぎん」
「別の願い? なんだそれは?」
少年は、龍女に純粋に問いかけた。
「『現状に変化を齎して欲しい』というものだ。人間というのは、どこまで行ってもこの願いから脱却する事はそう簡単にはできん――自分たちに都合の良い秩序が訪れる事を願うのも、憎たらしい輩が自分と同じ立場にまで転げ落ちる様を眺めたいと願うのも、今ある全てを更地にしてしまいたいと願うのも、根底にあるのはそれだ――だから、変化を求めずにいられる事は幸福な事の一つでもあるのだ――」
答えを全て聞いたかどうか定かではないタイミングで、少年が声を上げた。
「いや、ちょい待て――あぁ、いや……」
「ヴィセット、貴様の言いたい事は分かる。変化を求められる事も幸福な事の一つだ。我が言いたいのはその変化を誰が成し遂げる事に期待するか、というだけの事よ――つまり、誰に変化を求めるかなどという事はどうでもよいのだ。誰が変化しようが、あるいは変化しないままでいようが、それを成し遂げるのが自分である限りは大きな問題ではない」
改めて自分の名前を呼ばれた少年が、耳を澄ませながらとっ散らかった思考に目を向ける。
「問題は、それを自分以外の所に求めだした時だ。『誰かがこの現状を変えてくれないか』、『誰かがダメな自分をどうにかしてくれないか』……挙げればキリがないが、それに類する事は全てだ。結果として変化するのが何であれ、それを起こす事を他人に求めだした時点で最早救いようなどありはしないだろう――大体、自分の意思で起こしたわけでもない変化が、自分にとって都合のよい変化であるかどうかなど、この世の誰が保証できる――我でさえそんな物は保証できんのだぞ」
「……珍しいな、てめぇが『できねぇ』ってハッキリ言うなんてよ」
「当然だ、合理性だけで動かない存在の事など誰が保証できる。そんなものを保証できる者など、下手すれば我の上にも下にも存在せん――そんな原理の下で、変化を他人に齎してもらおうなどあまりにも自己を度外視した考えなのだ」
「じゃあ、生まれた時から変化を起こせないような環境に生まれた奴はどうすんだ――てめぇのその理屈は、どこかで変化を起こせる状況になれる前提でしか成り立たねぇだろう」
いきり立ってヴィセットが反駁すると、暫くの間を置いてから、突如としてイヴは優しく微笑んで見せた。今まで見た事のない表情を前に、少年は寧ろ不気味さを感じた――不気味な笑いはこれまで数え切れない程見てきたが、イヴがそんな顔をしたのは何をどう考えてもこれが最初だったはずだからだ。
「……ヴィセット、我の理想はそれだ。生まれた時点で終わっているなどという事が起きない世界にしたいのだ――誰の手にもどういう形であれ、自分の意思で変化を起こせる余地があるような、そんな世界に我はしたいのだ」
そうとだけ言って、イヴはその体を起こしてどこか彼方を向いた。
「与えられたその力を自分から放棄したのならば我は何も言わぬ。だが、その力が最初から与えられていないというのは酷な話でしかあるまい――我が貴様の救いになるとは、そういう事だ」
どこか儚げな笑みを浮かべたまま、龍神はその翼を広げて、向いている方向へと歩き出した。離れていく背中に向けて、勢いよく立ち上がりながら問いかけた。
「待てよイヴ、この世の全ての生命にその救いが与えられたとしたって、結局何も変わんねぇんじゃねぇのか!? 成り行きで力を持った奴が、他人のその力を奪い取るって事になったら、それは今と何も変わらないんじゃないのか!?」
どこかに反響して返ってきたその叫びが静まり返るのに十分なくらいの時間が経ったところで、イヴはゆっくりと、ヴィセットの方を向いて、笑顔を作った。
「貴様が心配するには及ばん。生命の意思はお前が思っているよりも案外強いものだ。いずれ何らかの形で生命が生命の意思を阻害する事になるのかもしれぬが、変える力を持つ者同士であるならば、それは今より余程意味のある物になろう」
そこまで言ってから、龍神はその体を完全に少年の方へと向けて見せた。
「貴様かて、もし過去のどこかで自分の手で何かを変えられる機会があったとすれば、迷いなく変える為に走り出しただろう、ヴィセット?」
改めて笑みを浮かべてから、イヴは足跡が残る程強く地面を蹴り込んで、空気の衝動をばら撒いて空へと飛び立って行った。その様子を見て、ヴィセットはすぐに身を屈め、自身と周囲を揺り動かす空気の群れをやり過ごして、それから、彼女が来た方向へと飛んでいく龍神の姿を見送った。
「……てめぇがもっと早く来てても面白かったのかもしれねぇのか――いや、どうだろうな」
肩をすくめたヴィセットは、瓦礫の山から飛び降りて、遠くなっていくイヴの姿に向けて、ゆっくりと歩いていった。気の所為でしかないかも知れなかったが、来た時よりかは幾分マシな気分になっていたように感じた。


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