八術八相の龍記録/闇の最果ての私へ

 メセルプレスタ12型広角望遠鏡は、私が小さい頃にプレゼントにもらった大切な宝物。そして、それは今でも私の大切な道具として、陰空そらを眺める私の目になってくれている。空に浮かぶ淡い光が何なのか――それは、この極陽世きょくようぜの今の観測技術では詳細には分かっていない。それでも、強い光に照らされる事のないこの陰空で、淡く輝くそれらの光が私の心を掴むのはそう難しい事ではなかった。でも、他の人たちと違ったのは、私が見ていたのは遠くに浮かぶ光たちではなくて、それらが作り出す陰空の不思議な濃淡だった、ということ。観測を趣味にしている他の人たちからは珍しい、なんてよく言われたものだけど、私はそっちの方が好きだった――そのせいか、或いはおかげか、私は彼女を見つける事ができた――或いは、できてしまった。それが良い事だったのかどうかは、まだ私には分からない。
「――何か暗くない物は見つかりましたか」
よく聞いた声が不意に響いたのを認めて、望遠鏡から目を離す。それから、くるりと体を翻してから、部屋の向こう側に置かれた椅子に座っている相手を見つけた。
「今回はいつから居たんですか?」
わたしやみの在る所ならどこにでも居ますよ、フィエナ」
「シアンさんったら、いっつもそればっかり。たまには何煎何分って教えてくれてもいいのに」
わたしはずっと居ますよ、貴女の心のやみさえあれば」
そう言って、シアンさんはその綺麗な翼を軽く広げて、外の淡い光に照らして見せてくれた――そう、闇の龍を名乗る彼女こそ、私が宝物で見つけた者だ。

ディオシアン=ナヴァロス。それが意識にある最後の名前。誰がその名をつけたのか――或いは、そもそも名などつけられていないのか、それすら私は知る由もない。ただ、私がこの陰空そらで目覚めた時、その名だけが意識に焼き付いて離れなかった。どうでもよい、というのが私の答えだった。この陰空には、遠くから光が降り注いでいる事だけはわかったが、私の周りに何があるのかはまるで興味がなかった。だから、私はそのまま眠る事にした――私が何者であるかなど興味がない――私がどう在るかなど問題ではない――私は、ただそこに在ればよい。そうして意識を切ったのは、この世界の言葉で表す意味もないほど遠い時の事でしかない。
「――アンフレマ――」
切ったはずの意識を再び繋げたのは、そのように聞こえる音だった。意識を切ってからどの程度の時間が経ったかは興味がなかったが、その音だけはどういうわけか興味を惹かれた。音がした方向は光が差し込んできている方向と同じ方向だったが、音が光源からしているわけではない事はなんとなくわかった。それよりも、もうちょっと前のところの何処か。なので、私はそれとなく光の方向へ少しだけ体を寄せた。
 ――やみを見つけたのはそれからほんの一瞬後の事だった。その頃にはわたしの意識を繋げた音は聞こえなくなっていたが、代わりに雑多な音が聞こえるようになっていた。そして、その雑多な音の中から、小さく、しかし、明確に、わたしの方へ向けて発せられた音がした。
「あれは何……?」
わたしはそこで、その音が意味を持っていると識った。その音のする方向へ少し体を寄せていく間、多くの音が響いていたが、寄せていくにつれてわたしに向けられたこえが多くなっていった。そうして、その声が最も多くなったところで、わたしはその目を開いた。目の前にあったのは、遠くの光よりもはるかに小さく、弱い光だった。それらの全てを集めても、わたしの指先にすら満たないほどの、小さく儚い光だった。不思議と、そんな小さなひかりに興味が湧いた。何より、最初に聞こえた声の持ち主が、真っ直ぐにその小さな光の中から私を見ていた。
「あ……貴女は、一体……?」
わたしはその声を聞いて目を閉じた。
(――さあ、わたしは一体何者でしょう)
わたしは最果てで意識を繋げた。だが、それがわたしの始まりなのかどうかの確証がない。目の前でわたしに問う者とは、異なる存在ではある。だが、それがどのように異なっているのかを伝える術がない――何が異なっているのかをわたしは識らない。わたしが何者かを伝えるには、答えとして不適当だ。ならば、わたしが何者であるか、という問いへ返せる答えを、わたしは一つしか持っていない。私は目を開いて、その答えを返した。
「――ディオシアン=ナヴァロス・アンフレマ」

 陰空そらいっぱいに広がるシアンさんの瞳を見た時の驚きは、今でも覚えている。いや、あんなのどうやったら忘れられるのか教えてほしい――下手したら、死んでも覚えてるかも。いまでこそ、シアンさんは全身が辛うじて視界に収まるかどうかぐらいのものすごく離れた位置で漂っているけど、最初に現れた時の近づき具合はそんな感じだった――そう、今目の前にいるシアンさんは、陰空に漂っている途方もなく巨大なシアンさんの分身に過ぎない――シアンさん本人は"媒体"って言ってたっけ。ともかく、「より細かいわたしでなければここを識る事ができない」という事らしい。よくわからないけど、そりゃあんなでっかい体じゃ私達の街はよく見えないと思う。というか、この浮遊大陸自体が指先だけで全部粉々になっちゃう。こっち光が差してこない側の各所で総力を挙げてシアンさんの本来の大きさを測ろうとあれこれやってるみたいだけど、未だにシアンさんの全長は明らかになっていない。分かっているのは、どんなに少なく見積もっても1.6アンザメゼタ1380800km以上あるっていう事。アンザメゼタなんて単位、大陸のサイズでさえ聞いたことがない。最初に聞いた時、単位か数字か、いっそ両方間違ってるんじゃないかと思った。そもそも、そんな巨大なシアンさんの存在になんで誰も気が付かなかったんだろう。シアンさんは「私はずっとそこに居ました」って言うけど――実はずっと隠れていたり……?
「――フィエナ」
「ん……ん、んん――っ!?」
いつの間にかそばに居たシアンさんに、正面を向いた途端に抱きつかれた。私の顔は、身長差も相まってちょうどシアンさんの立派なお胸に思いっきり埋まってしまった。

(――違う)
少女フィエナからわたしが生まれたのを感じて、私はいつもどおり、彼女の体を自分の体に密着させてみる――途端に、フィエナからわたしが生まれた事に気づいた。
(――違う)
これは、さっきまで生まれていたわたしじゃない。わたしである事は確かだが、それは今生まれているわたしとは違うわたしだ。
(この少女は――やみをこうして惑わせる)
やみに直面した生命から生まれるわたしは、大抵の場合、容易に区別ができる――最たるわたしは不安。恐怖。絶望。憤怒。苦悶。憎悪。もちろん、すぐには区別できないわたしもある――フィエナが言うには、それらは後悔。嫉妬。背徳。疑念。これらはわたしとして感じても、すぐにこれと分ける事ができない。
(密着するまでに生まれていたわたし。密着した後に生まれたわたし。違う事は分かる)
やみを最初に見つけたフィエナは、初めこそ絶大な不安に囚われていた――恐怖ではない、不安だ。だから、やみは興味を抱いた。そうして今、フィエナは陰空そらに浮かぶやみに相対しても、眼前でわたしに相対しても、わたしを生み出す事がない――それなのに、どうしてか、こうして密着した時に、必ずわたしを生み出す。
(フィエナがわたしを生み出すのは、必ず正面から密着した時。側面、背面からでは生まれない)
同時に、この世界小さな光に散りばめたわたし達が識った事を思い出す。
(人と人が密着した時に生まれるものは何によって決まるのか。多くの情報を得ても、それが"密着した時の双方の向き"であるとは思えない。だとしたら、これは一体――)
何度抱えたか分からない疑問を胸に、その胸を軽く落として少女の表情を伺う。何度見たか分からない、眉をしかめたような、困ったような顔をしていた。この表情は――
(――違う。この表情は――何なのだろう)

(うぅ……お、おっきい……)
シアンさんのお胸から開放されると、シアンさんの凛々しい顔が不思議そうな顔になっていた。シアンさんは私に抱きつく時、必ずそのお胸を私の顔に押し当てて来る。いや、体の大きさが全然違うからそれはしょうがない――問題なのは、その桁違いなお胸が、何の抵抗もなく・・・・・・・私の胸まで滑って下ろせる事だ。
(ちょっと……いや、半分くらい分けられたらなぁ……)
うん。シアンさんの全長を知る事より無理な事は分かってる。でもどうしても、届かないと分かっていてもつい願っちゃったりする。こればっかりは何度抱きつかれてもどうしても嫉妬してしまう。そういえば、いつだかその事を言われた事があるけど、シアンさんは「フィエナのそのやみわたしがいずれ理解します」なんて言って詳しく聞いてこなかった――シアンさん、これが嫉妬っていう闇だよ。
 なんて事を深刻に考えていたら、前になんかそれらしい事を言っていたのをふと思い出した。確か、「疑念と背徳は区別しづらい」なんて事を言ってた――「後悔と嫉妬も同じです」とも言ってたっけ。今度は私が腰を下ろしたので、頭がまたシアンさんのお胸に引っかかってしまったけど、シアンさんが同じくらい姿勢を低くしてくれた。
(……シアンさん、ちゃんと理由を言ってた……なんて言ってたっけ)
珍しく物思いに耽ってみる……ちゃんと思い出せるかな……そう、確か、大雑把には「後悔も嫉妬も背徳も、根っこにあるのは疑念だから」って話だった――そう、そうだ。その3つは、全部疑問になるから、とかなんかそんなんだ――でも、どういう疑問になるんだったっけ……うーん……。
「……シアンさん」
顔を上げて、聞いてみる。シアンさんは、返事をする代わりに少し微笑んでくれた。
「いつだったか、分けられない闇、について話してくれたと思うの」
「はい、わたしが区別できないやみの事ですね」
「確かその、後悔と、嫉妬と……あと、背徳? なんか、その3つって疑問になるから疑念と同じじゃん……みたいな――うまく言えないけど――なんかそんなだったと思うんだけど、合ってるっけ?」
「そうです……後悔は、『あの時他にできる事が本当に無かったのか』という疑問です。嫉妬は、『何故私の手元にはあれが無いのか』という疑問です。背徳は、『これは道理に反してはいないのか』という疑問です――そして、疑念はそのまま、様々な形の疑問です。私の目には、それらがどうにも別の物ではないように感じられます――ですが、貴女達が言うには、それらは別の物だという事らしいですね。どうにも不思議な話です」
不思議、という割には、シアンさんは顔色を変えなかった。私の目にはその事の方が不思議に見える。やっぱり、龍だから価値観というか考え方というか、なんかそんなのが違うのかな。ミステリアスな人だなあ……いや、人じゃないんだけど。

 この少女フィエナは不思議な存在である。わたしとは在り方がまるで違うと分かっているのに、それでもまるでやみと同じであるかのようにわたしに接する。恐らく、わたしの在り方は貴女には理解し切れないのでしょう。そもそも貴女がやみを理解しようとしているのかどうかさえ今のわたしには分かりませんが。そんな不思議な存在を再び注視すると、その存在が急にわたしに聞いた。
「シアンさんは、その、その辺はやっぱり、ちゃんと分けられるようになりたいの?」
「……」
一度、頭を上げて大元・・に思考を譲渡する。
(本当に、この少女はやみを惑わせる)
確かに、わたしやみの区別をつけられるようになる事でわたしが果たしたい目的とは何なのか。貴女に言われてみるまで、それは漠然としたものでしかなかった。わたしわたしが喰らうやみがどんなやみであるか、理解したいと考えた事自体、本来一度だって無かったのだ――そんなもの、理解したところで意味を持たないからだ。わたしやみを喰らえば、それはそのままわたしの力になる。そしてそれは、わたしわたしとして存在する意味の一つでもある。貴女達に比べてわたしが巨大な姿をしているのは、それがやみを貴女達から喰らう為の最も単純な方法であると、わたしの本能が識っていたからに過ぎない――いや、本当のところ、識っていたのかどうかは定かではない。それでも今、わたしは貴女から生まれるやみの事を識りたいとしている。であれば、わたしが識りたいと欲するその理由は単純だ――。

シアンさんは天井を見上げたまま、暫く動かなくなってしまった。うーん、何か難しい事を聞いちゃったかな……あ、目を閉じた。
「――そうでしょうね」
そう言ってから、シアンさんは私の顔を見つめた。仄かに緑色に光る瞳に真っ直ぐ見つめられると、本当に吸い込まれてしまいそうになる――まるで、この陰空そらみたい。そんな瞳に見惚れていたから、シアンさんがその手を自分のほっぺに寄せてきたのに気づかなかった。
「わっ」
「あぁ……ごめんなさい」
「う、ううん……平気」
笑顔を作って見せると、シアンさんも優しく微笑んでくれた。
わたしはきっと、やみの事を識りたいのでしょう。ええ、何より、わたしが思うやみの事ではなく、貴女ひかりを通じて識る事ができるやみのことを」
窓から射し込む柔らかい光に照らされた顔が、とても綺麗に瞳に映る。何かとても難しい事を言われたような気がするけど、不思議と何を言おうとしたのか、なんとなく分かる……うん、多分。いや、きっと分かる。頑張れ、私。なんて自分を励ましてたら、シアンさんが窓の方をゆっくり向いて、そのまま体もそっち側に向けた。私も真似をして、シアンさんと同じ方を向く。
「私も、シアンさんの事知りたいな。最初に何を知りたいとかじゃなくて、とにかく色々な事を」
その言葉を聞いたシアンさんは、不思議そうな顔をしてゆっくり私の顔を見てきた。不思議そうな顔をしていても、お顔が凛々しいのは確かだった。そのお顔を見ているとなんだかもどかしくなって、視線をつい下ろしてしまう――と、私とシアンさんの間に少しだけ隙間が出来ている事に気がつく。そっか、さっきまでは微妙に隙間があったんだ――それじゃあ、その隙間は埋めちゃおう。思い切って、自分の体をもう少しシアンさんに近い方に寄せて、座り直してみる。
「――ふふん」
ちょっとごまかすために、そんな風に口ずさんでみる。ちょっと照れくさくてシアンさんのお顔は見られないから、代わりに頭をシアンさんに委ねてみた。

フィエナが急に小さな体を寄せてきたので、その顔を伺おうとしてみる――が、少女《フィエナ》は窓の向こう側を見ていたままで、奇妙な表情の断片を象った横顔しか映らなかった。
(――違う)
今、少女《フィエナ》が生み出すわたしは、先程までのわたしとまた違う。これもまた、新しいわたしなのだろうか――ただ、このわたしが、やみの一番深い所にあるような気がするわたしと似ている事だけは、如実に理解ができた。最も、それをこの世界小さな光でどう表現するのかは分からなかったが。言葉を発する代わりに、わたしは寄り添ってきた少女《フィエナ》に身を寄せてみる。この行動によって何を識る事ができるのかは分からないが、それでもそうしてみるだけの意味はあると、やみの直感が告げていた。
(――この少女《ひかり》は、わたしの識らないやみを知っている)
少女《フィエナ》が普段しているように、少しだけ体を後ろへと徐に傾けてゆき、陰空そらを眺めてみる――フィエナは体をそのまま寄せていたので、体勢が少し変わる事になったが、特に何も言わなかったのでそのまま眺めてみる事にした。

シアンさんがゆっくりと姿勢を変えたので、私の頭がシアンさんの左腕からスライドして、ちょうどお胸の所に寄り掛かる感じになった。頭から伝わる柔らかな感触を受けて、さっき言った事を少しだけ後悔する――やっぱり、何をどうやったらこのお胸に近づけるかを一番最初に知りたいかもしれない――けど、これはこれで良いのかもしれない、なんて、今に限っては思えるような気がした。それが何故かは分からないけど、なんとなくシアンさんのおかげなような気もしなくもない……いや、やっぱりそんな事はないのかな?やっぱり、この人……じゃなくて、この龍はミステリアスなところがある。本当に。それでも、私の思いは変わらない。

フィエナがまた、新しいわたしを生み出した事に気がつく。本当にこの少女《フィエナ》は、わたしの知らないやみを沢山知っている――いや、もしかしたら、無意識のうちに生み出しているだけで、本当は貴女も知らないのかもしれない。しかしそれでも、わたしがこの少女《ひかり》と共に在る事をやみが受け入れている事は確かだと感じられる。その理由は思考から生み出される事は無かったが、それが普段どおりの結論を導いた事にわたしは満足する事にした。

――私は、シアンさんの事が知りたい。

――フィエナはわたしを惑わせる。

私とわたしは、陰空そらを見つめたまま互いにそう思ったのだった。


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