八術八相の龍記録/そばにいるあなたへ

第七明天イェアスティアラにある8番目の宇宙である第8並世に、第7並世から術者が2人呼ばれて行ったのは、蒼來世そうらいよの時計で午前1時を回った頃だった。第7並世と第8並世とでは宇宙の作り方が大きく異る所もあるが、少なくとも昼と夜の概念があるという点について変化は無かった。
「……なるほど、あれがこっちで言う所の太陽にあたる大天球か」
「太陽と月と違って、こっちではあの球体が明滅を繰り返す事を1日と定義しているらしい。最も、あの球体が具体的に何でできていて、どういう仕組みでそのような周期性が観測されているのかはイマイチ良く分かっていないと聞いた事がある」
わたるはそっち方面詳しいんだな」
「能力の都合もあるし、じんよりかは色々な場所行ってるからなぁ……」
空域を高速で移動している観測気球から天を見上げて、渡がつぶやいてみせた。それを聞いていた迅は続けて疑問を投げかけた。
「なら、これから会う事になってるその"魅龍"とやらについても知ってるのか?」
「……話だけは聞いた事がある。この第8並世の各宇宙に全部で64体居るという、八術と八相を組み合わせた龍種の一人だと」
「八八六十四か、そしてその人はその中でも魅術の力を引き継いでいるから魅龍、か」
「本人達は"魅龍アフェクドラグ"って呼んでますけどね、実際の所どう呼ぶのが正解なのかは僕も知らないですね」
2人を乗せた観測気球を駆るアルテーシャが教えた。先程から通訳デヴァイスを用いて喋る事はあるが、どのような状態でもその目は行き先を見続けて、手元の操縦器と思しきアーティファクトを微妙に傾けたりずらしたりし続けている。
「あ、見えてきました、あそこに居るのがシャロナさんです。正式にはグラシュヴェルカ=カミール・シャロナ・アイスと呼びますが、本人はシャロナと呼ばれるのが好きみたいです」
操縦士が一瞬手を向けた方向を2人が見ると、しばらくの間風を切る音だけが3人の間に文字通り流れていった。やっと口を開いたのは迅の方だった。
「……身体が大きいとは聞いてたが、あのサイズは流石に想定してねぇぞ」
「自分も巨大だって事は聞いた事があったけど、あれは知らんなぁ……はは」
2人とシャロナと呼ばれる魅龍の間には、まだ百何十キロという単位で距離が開いているはずだったが、その距離でも薄明かりに照らされて彼女の巨大な体躯が十分に見て取れた。翼こそ見えないが、頭から伸びる金色のヒレと角、端正な顔に美しく刻まれた龍の鱗、薄紫に見える長い髪が頭の両脇で小さな団子を作ってツインテールのようになっている所まで、細かい所が綺麗に見て取れる。それも、彼女の規格外としか言いようのない巨大さによる物である事は誰の目にも明らかであった。
「……えーと、シャロナさんって言ったか、あの人……というかあの龍一体何キロメートルあるんだ?」
「僕も正確には知らないんですけど、シャロナさんと同じくらいの体格の魅龍を測った事があります――そうそう、和平世そっちのせかいの単位だととっても綺麗な数字になるんですよ、ちょうど5000キロメートルをギリギリ超えるくらいの"距離"でした」
「5000キロ!? それ尻尾も含めてですよね?」
「いえ、人体部の頭から足先までですーー尻尾の先まで測ろうとしたんですけど、その時は『尻尾伸ばしたままにするのきつい』って言われて測れなかったんです」
「……あんな物理的な大物が、何の用があるって言うんだ?」
「さあ、僕も詳しく聞いていないんです。とりあえず、細かい話は話が通る距離になってからですか、急ぎますね」
そういって、観測気球は速度をぐいっ、と上げた。霊術で抵抗を極限まで減らしたこの気球の速度でも、彼女の元に辿り着くまではもう少し時間が掛かりそうだった。

「お二方とも、物理的にも次元的にも遠い所から本当にありがとうございます、私の事はシャロナと呼んで下さい」
シャロナの顔から数十キロほど離れた所に気球はあったが、それでも気球からの視界では彼女の瞳がギリギリ収まるかどうかの有様であった。気球から少し下を見下ろせば顔から胸元が辛うじて見える程度で、それより先は空の霞に消えてしまって見えづらい。
「えーと、狭間はざまわたると言います、前に聞かれた通り空間をつなげたり色々する空間術が一応使えます……えっと、この距離でも聞こえてるんですかね?」
「ああ、そこは安心して下さい、その周辺にセンサーみたいな物を今私が張っていますから、普通に話すようにすれば聞こえるよ。あ! あと、私が話してるのもホントはテレパシーだから皆以外には聞こえてないよ」
「便利なもんだな……あぁ、自分が時乃里ときのりじんです……あまりやりたくはないが、確かに時間を戻せる術が使えます」
「ありがとうです、まず先に確かめたいんだけど――」
シャロナは、少し間を置いてから次の言葉を切り出した。
「――私を、過去に飛ばす事はできますか」
巨大な魅龍の問いかけに、矮小な術者2人は顔を見合わせた。しばらくして元の向きに顔を戻してから、再び顔を向き合わせた。すぐに渡が、一瞬だけシャロナの方に顔を向けて元に戻した。『お前から話せ』、というサインである。迅は、少ししてからすっとシャロナの巨大な瞳に向き合った。
「――長い時間じゃないが可能だが、危険だ。そもそも、退っ引きならない事情がない限り、一方向に進み続けている物に逆らう事自体禁忌とされるべきだと考えている」
「……シャロナさん、シャロナさんの飛びたい『過去』っていつの事か教えてもらっても良いですか?」
シャロナは、その大きな顔をほんの少しだけ、下に向けた。
「……684年前の、今」
「684年前……いくら何でも遠すぎるな……」
「私が力を分けても無理……?」
迅は、しばらく頭に手を当てて、険しい顔をしてから覚悟を決めたように顔を上げた。
「嘘をつくのは駄目だ……可能だが――何にせよ推奨はしない」
「シャロナさん、そんな昔の今に飛んで何がしたいんです?」
やり取りを聞いていたアルテーシャが、ずっと渦巻いていた疑問をぶつけた。シャロナは、視線を斜め下の、どことも言えない微妙な所へ向けながら微かな声で答えた。
「……パパの様子が見たい」
「「……は?」」
術者2人が揃って素っ頓狂な声を上げた。
「ええっと……そっか、まずそっから説明しないといけないのか、えー……そうだね……」
シャロナは視線を空中で迷わせ、そのまま言葉を詰まらせた。その様子を注視していた2人には、彼女が説明の仕方に迷っている事は明らかに見て取れた。見かねて、気球の操縦者が助け舟を出した。
「えー、すごく大雑把に説明すると、シャロナさんは昔――まだ身体の大きさが僕らと同じくらいの大きさだった頃があって、その時にエロゾリス・アイスという妖人に育てられていた事があるんです」
「エロゾリス・アイス……なるほど、シャロナさんの名前のアイスってのはそこから来ているんですね」
「シャロナって名前はパパからもらった名前なの。『グラシュヴェルカ=カミールだと長くて大変だろうから』って。それで、私はずっと色んな人にシャロナって呼ばれて来たから、今でもこの名前が好きでずうっと使ってるの」
子供っぽく、しかし心から嬉しそうに話すシャロナの様子を見た迅は、彼女が今でもエロゾリスなる人物の事を克明に覚えているという事実を認識した。同時に、第7並世でも一般に知られている妖人の平均寿命と、先程話に上った684年という年月を想って、必然的に導かれる事実にも気がついた。
「……パパは、362年前の第8月の第17日に死んじゃいました。今でも、パパのお墓はあの浮いてる島にあって、無理やりすごく小さくなって会いに行っています」
2人は、シャロナがその大きな手を向けた方向に目をやった。なるほど、かなりの広さと思しき浮遊島――というより、浮遊大陸とでも言うべき代物が、極めて安定して空中に鎮座していた。2人から遅れて大陸の方に目を向けたアルテーシャが語りかけた。
「サル・パフェーナ大陸、この蒼來世で最も南にある浮遊大陸です。現在の技術で観測可能なこの平面世界では、ここより南には浮遊大陸は愚か、デブリ一つすら見つかっていないんです。自分も何度か観測を試みましたが、あったのは偉大な先人の遺品だけでした」
「私がまだ皆さんと同じくらいの大きさだった時、あの島のとある場所で目が覚めました。目が覚めた時に知っていたのは、私がグラシュヴェルカ=カミールという名前を"持っている"事と、目が覚める前のいくつかの出来事でした――最も、それが私が生まれるより前の出来事だったって事はパパから聞いて初めて分かったんだけど」
「シャロナさんが自分達と同じような大きさだったって事はかなりの衝撃ですね――それで、なぜ684年前の今に戻ってみたいんです?」
シャロナは、まぶたを下ろして肩をすくめてみせた。
「……私、パパとは何度か喧嘩しました。その度にお互いに謝って仲直りしてきたんですけど、1度だけ私が謝らなかった事があるんです」
「……もしかして、謝りたいのか?」
「……本当は。でも、過去に干渉するのが良くない事は私も分かっています。だから、せめて喧嘩したあの日の夜に、パパがどんな様子で居たのかだけは知りたいと想ったの」
時間術者の問いかけに、魅龍はばつが悪そうな表情を浮かべて視線を逸らした。
「……どうするよ、迅。自分はエネルギーの保証があれば飛ばす事自体はできる」
「……どうしたもんか……」
迅は、そこそこの時間何も言わずに考え込んだ。自分の持っている能力が及ぼす影響が絶大な物になりかねない危険性は、自分が一番良く分かっているからこその思慮であった。シャロナが注視する中、やがて、意を決したように口を開いた。
「……条件がある。俺が言ったら問答無用で強制的にこっちに帰ってきてもらう」
「一向に構いません! 飛ばして下さい!」
「迅、俺が言ったらってのはどういう事だ?」
「――俺はこの能力に気づいた時、真っ先に磨いた能力がある。時間軸に異常が発生した時にそれを感知する能力だ――最も、具体的な異常の内容までは分からねぇんだが――ともかく、シャロナさんが過去に飛んだ事によって、現在の世界で何か異常が感知されたら、その異常をできるだけ小さくするために、その時点で戻ってきてもらう。エネルギーが保証されてれば強制転移はお前できるだろ」
「エネルギーが保証されてればな……まあ、自分は他人を強制的に移動させるの好きじゃないんだけど……事情が事情だしなぁ」
「分かった、俺はいつでも構わないから、渡の方で準備ができたら教えてくれ」
迅は、気球からどこか遠くの方へと視線を向けて、険しい顔をしてみせた。

「とりあえず、安定して持続できる範囲で極限まで小さくなってみたけど、どう?」
「おー……確かに見違えるほど小さくなったけど……でけぇな……」
「一応、"半分にする"のを16回やりました、これ以降は安定性が自分でも担保できない」
「……2の16乗……256の2乗は……えー……」
「……65536だから5000キロをそいつで割ると……いくつだそりゃ……」
見かねたアルテーシャが、足元の道具箱から計算機を取り出して、叫んだ。
「約0.0763キロメートルだそうです」
「76.3メートルかー、とんでもねぇ。お前そんなの飛ばせるか?」
「まあ、シャロナさんがこれを用意してくれたから、ちょっと無理するかしないか程度で何とかなると思うが、そっちこそどうだ?」
「これだけの魅力が込められた結晶があれば問題ない――というか、俺こんなサイズの魅力結晶初めて見たぞ。魔力結晶なら魔力の性質上これくらいのサイズになるのは珍しくねぇけど」
2人の近くでは、人間の背丈ほどは辛うじてない程度の大きさの、薄紫色の半透明のクリスタルのような物が空中で淡く光っていた。シャロナが持つ膨大どころの騒ぎではない魅力が圧縮されて詰め込まれた結晶体であり、2人にとってはこれから行う無茶な試みを可能にする、重要なエネルギー源であった。
「それじゃあ、やり方を確認しておく」
迅が、浮いているクリスタルから視線をずらして切り出した。
「まず渡が、出発地と到着地をどちらも同じ座標として転移点を作り、転移が可能な状態にする。そしたら俺が、到着地の座標の時間軸を684年分過去にずらす。その状態になったら、シャロナさんが転移点を用いて転移を行う――多少転移先がブレるかもしれないが、そこは渡がサポートしてやれば多分問題ないだろう」
「私は、現在の時間軸で何か異常が感知された時と、転移点にある程度の不安定性が生じた時に戻される、それでいい」
空間術者が頷いてから、ちょっとの間を置いて付け加えた。
「現在に異常が起きた時はともかく、転移点が不安定になりそうになった時は、その兆候がみられた時に霊力パルスを飛ばす事はできます。兆候があってから不安定になるまでどれくらいの時間があるかは分かりませんが、多少の目安にはなると思います――もちろん、それらに関わらず、戻りたくなったら転移点を辿って此方側へ帰ってきても平気です」
シャロナは無言で、こくり、と首を縦に振った。それを見た渡は、即座に右腕を前方に振り上げ、一瞬険しい顔をした。途端に、シャロナの前方に2つの菱形が現れた。2つの菱形は重なるように宙に浮いており、シャロナに近い側が青く、遠い側が緑色に淡く光っていた。
「緑色の方が"向こう側"だ、そっちの時間軸をずらしてくれ――"向き"間違えんなよ」
「うるせぇ馬鹿野郎、過去と未来間違えるような奴、現在いまにいる資格がねぇ」
悪態をつきながら、迅は右腕を水平に構えると、真剣な眼差しを見せてから、そのまま腕を水平に素早くずらした。ずらしてからしばらく、迅の右腕は何かに揺さぶられるように震えていたが、十数秒ほど経つとその震えも収まった。
「……"戻った"。今転移すれば、場所は同じだが転移先は684年前の今になる」
「ありがとうございます、2人とも。それじゃあ、行ってきます」
「――変な気起こすんじゃねぇぞ」
転移のための魅力で淡く光り始めたシャロナに、迅が釘を刺した。それに応えるようにシャロナがふっ、と微笑むと、一際強い光を放ち、シャロナの姿が綺麗に消え、巨体の向こう側に広がっていた何もない空が広がった。
「……シャロナさん、どのくらい向こうに居られるんでしょうか?」
様子を見届けていたアルテーシャが、2人に聞いた。
「……空間的には、どんなに長くても15分は持たないと思う。そっちは?」
「……彼女と、この世界の運命次第だろう。過去に飛んで何かしても何の影響もない事もあるし、何もしなかったとしても過去に飛んだ事自体が影響を及ぼす事もある――少なくとも、今わかるのは後者だけは今の所ないという事だ――何にせよ、幸運を祈る他ない」
急に見晴らしが良くなった空域を眺めて、2人の術者は各々の作業に集中する事にした。

転移した時の感覚を身体に味わうのは、一体何年前の事だっただろうか――そんな事を考えたかと思えば、すぐに普段どおりの感覚がその身体に戻ってきた事にシャロナは気づいた。膨大な魅力と、そこから変換した霊力のおかげで、転移酔いの影響は殆ど無いに等しかった。目に映る世界は、自分の身体が大幅に小さくなっている事もあり、サル・パフェーナ大陸が自分の身体よりも遥かに大きな物に"見えている"――問題ない、縮小が解けていたり、逆に更に小さくなっているなんていう事はない。大天球に目を向けると、さっきまでいた"未来"と殆ど変わらない光り方をしている事を認めた――つまりは、時間的には深夜である事に間違いはない。そこまで確かめた所で、シャロナははっとして自分の身体を大陸より低い位置になるように高度を落とした。
(ここは過去なんだから、この時の島の皆には見られないようにしなきゃ)
自分より大きい物になっている大陸を下から見上げながら、目的地の方角を即座に見定めた。小さい頃を過ごした場所は、幸いにも大陸の岸も岸だったので、岸から顔を出せばちょうどその家が見えるだろう――そう考えて、もっとも近い岸の所までゆっくりと飛んでいき、まわれ右をした。
(島の皆は早寝だから、この時間はまず誰も起きてないってのは、この時からずっとなんだよね)
岸にぶつかってしまわないように、しかしできるだけ岸に近くなるように、いい具合の位置を模索してから、シャロナはゆっくりと高度を上げていった。
(そうだ、家に近づく前に視界偽装をすればいいんだ、そうすればパパの寝顔も見られるかも……そういえば、パパの寝顔を見たのって、パパが――)
そんな物思いは、岸から顔を出した途端に視界に入った人影によって即座に停止した。こんな時間に起きている人が居たという事実よりも先に、人間で例えれば4センチに満たないほどのその小さな人影が、シャロナにとって誰よりも見覚えのある顔であるという確信がシャロナを大きく動揺させた。
「ぱっ、パパ――」
大きな龍と小さな人は、お互いに呆然としたような顔でにらめっこを開始した。数秒経った所で、龍の方が負けて大慌てで頭を引っ込めた。
(え!? なんで!? 確かにパパだったよね!? え、おかしくない? パパがこの時間に起きてるなんて聞いた事無いんだけど!? というか家から離れた岸でくつろいでるとか知らないんですけど!? ちょっと!? 話が違うんですけど!?)
パニックを起こした魅龍の暴走は、岸の上から投げかけられた声によって鎮火した。
「……シャロナ?」
恐る恐る顔を岸から――さっきよりも少しだけ離れてから――出すと、記憶の中で最も良く見た顔がそこにある事を改めて認識した。濁流のように色々な感情や思慮、憶測が入り乱れる中、どうにか言葉を1つだけ絞り出した。
「……ただいま、パパ」

「ただいまじゃないだろう、お前こんな夜遅くに何やってるんだ」
岸から大きな顔を覗かせた育ての子に向かって、エロゾリスは臆することなく声を上げた。
「そ、それはパパだって一緒でしょ! パパこんな時間に起きてこんな所で何してたの! いっつも危ないからここへ来ちゃいけないって言ってたし、私が夜ふかししてたら怒ったじゃん! 私にはあんなにあれこれ言ってたのに――」
そこまで言って、シャロナは自分が未来から来ている存在である事を思い出し、言葉を詰まらせた。同時に、エロゾリスと共に居た頃の記憶が鮮明に、そして大量に思い浮かんできた。言葉に言い表せないような、複雑で、しかし温かいような感情が胸を満たす中、全く意識外の言葉が届けられた。
「――そうか、大きくなったんだな」
全ての思い出が、"現在"にまとめられたかのように、目の前の光景がくっきりと鮮明に飛び込んでくる。そうして、一つになった想いが、一滴となって龍の目元から溢れた。
「――驚いたりしないんだね、パパ」
「シャロナに会ってから驚きっぱなしで、もう慣れっこさ。学び舎の行事で旅行に行ってるからたまには良いだろうと想ってたんだが、お天道様がちゃあんと見ていたんだな」
エロゾリスは、岸からある程度距離を取ってからこてん、と腰を下ろして言ってみせた。その仕草は、シャロナがこれまで何度も見てきた物と変わらない物であった。
「――パパ、ごめんなさい」
「なんでシャロナが謝るんだ、謝らなきゃいけないのは俺の方だろう」
「違うの。その事じゃなくて――」
エロゾリスは何かに気づいた顔をして、すぐに左の手のひらをシャロナの方に素早く突き出した。
「分かった! ごめんな、わざわざ"今日"来たって事はそういう事か――別にそんな気にしてないし、あんな言い方した俺の方が悪かったんだ――」
「私はずっと悪いと思ってたの! 出かける前にちゃんと謝っておけばって……結局、帰ってからも――その――」
「……良いさ、いつから来たのか知らないけど、そんな事をわざわざ言いに来てくれただけで十分だよ――というか、本当に大きくなったなシャロナ。お前、そんな大きな身体で迷惑かけてないか?」
「本当はもっと大きいの――でも、平気。ここに居られるのは、すごく小さくなってる間のちょっとの時間だけなんだけど、それ以外の時はこの空に住んでていいって皆が言ってくれたから」
「そうか……良かった、俺が死んだ後でも皆に愛されてるんだな」
「パパ――」
その時、転移してきた方角から、霊力の波が飛んできたのをシャロナは感じ取った――つまりは、もう時間がそんなに無いという事だった。
「パパ、私そろそろ行かなきゃいけない」
エロゾリスは、黙って頷いてから立ち上がった。
「全く、立派になったんだからこんな時まで戻ってきちゃ駄目だぞ」
「……うん――パパ、最後に抱っこだけしてくれる?」
育ての親は、困ったような笑顔を見せた。
「馬鹿かお前、こんなでっかくなっちゃってどうやって抱っこできるんだよ」
「鼻先でいいから、ね?」
シャロナは、慎重に鼻先をエロゾリスの前へ近づけた。そこへ、エロゾリスがトコトコと近づいて、一度立ち止まってから両の手を開いて、もたれかかるようにしてシャロナの鼻先を抱きかかえた――とは言え、凄まじい体格差のせいで、両の手は殆ど開いたままのような姿でエロゾリスはつぶやいた。
「――大きくなっても、シャロナはシャロナのままだな」
「パパ、私、色んな人とお別れしなきゃいけないの。友達も、先生も、私に会いに来てくれた人とも、何より――」
シャロナは、堰を切ったように、その大きな目から涙を零して打ち明けた。
「――シャロナ、仕方の無い事だって教えただろう?」
「分かってる――でも……寂しい……」
「……シャロナ、確かに会えなくなる事は辛いと思う。でも、消えてなくなったわけじゃないだろう? だからこそ、こうして俺の居た時まで来てくれた。先に旅立つ側が、それが何よりも嬉しいんだ」
「……パパ……」
「だからシャロナ、その気持ちは大事にしてあげなさい。シャロナに覚えていてもらえるなら、死ぬ事だって怖くなくなる人がどこかにいるはずだから。少なくとも、パパはそれだけでもうなんにも怖くないさ。俺が死んだ後、シャロナが平気かどうかだけが心配だとは思ってたけど、それも今平気になったから、もう本当にへっちゃらだ」
「……ありがとう、パパ――」
「お礼をしなきゃいけないのはパパの方さ。ありがとう、シャロナ――だから、元気でやれよ」
涙で濡れた頬を龍の手で拭うと、シャロナは顔をエロゾリスから離した。エロゾリスの方も、離れていく鼻先から手を離し、シャロナの方から少し距離を取った。
「それじゃあパパ――行ってくるね」
「おう、行ってきな――俺はここに居るからよ」
エロゾリスは微笑みを浮かべて、離れゆくシャロナに手を振った。シャロナは、来た時とは逆に、岸に沈んでいくように頭を沈めて身体を大陸の下へ隠した。エロゾリスの視界からシャロナが見えなくなってしばらくしてから、大きな手が岸の下から姿を現し、その手のひらを左右に何度か振ってから、その手もまた岸の下へと沈んでいった。その様子を見届けたエロゾリスは、誰も居なくなった岸の方へもう一度だけ手を振って、岸に背を向けて家の方へと歩き出し、肩をすくめて呟いた。
「――夢だとしたって嬉しいよ、シャロナ……しっかし、一度姿を隠してから手を振る仕草、あんだけ立派になってもやってんのかぁ……」
エロゾリスは、旅行を楽しんでいるであろう、"今"のシャロナを想ってから、言葉を継いだ。
「――まあ、何度言っても聞かないだろうけど、一応言うしかないわな……とりあえず、帰ってきたらあの事は謝らないとな」
ふと空を見上げると、大天球が淡く輝いているのが見えた。どこか普段より綺麗に見えるな、とエロゾリスは感心した。

来た時と同じような転移の感覚を味わったのち、シャロナはゆっくりと目を開いた。出発前に見ていた光景が、そこには広がっていた。すなわち、観測気球に乗った3人の姿と、面影を残しつつ変化した、サル・パフェーナ大陸の姿である。
「……よし、転移点は正常に消滅した。時間の方は平気か?」
「……大丈夫だ。極めて微小な変化は何度かあったが、誤差の範疇に収まるだろう」
「周囲の探知をしましたが、目立つような変化は無いですね。少なくとも、こっち側は問題なく完了したんでしょうか?」
「そうですね、ありがとうございます、アルテーシャさん」
「いえいえこちらこそ――それで、シャロナさんの方は……?」
アルテーシャが姿を現したシャロナの方へ問いかけると、シャロナはおちゃめな表情をしてから、両手を広げて自分の頬の横に広げて見せた。
「ばっちり!」
「だろうな、じゃなきゃ今頃大事になってるだろうし」
迅は、気球に据え付けられた椅子に座り込んで一気に脱力した。
「あー、終わったと思ったら急に眠くなってきた」
「はぁ……確かにな。とりあえずシャロナさん、頼まれ事はちゃんとできたって事で平気ですか?」
「もちろん! 本当にありがとうね、2人とも――そうだ、お礼を色々しなくっちゃね」
「ちょいまち、そんな色々なお礼は要らないから、とりあえず今日は宿に戻って寝かせて欲しい」
「宿に戻って寝るって、寝て起きたらもう和平世なごみせに帰らないといけないだろ」
シャロナは、うーん、と首を傾けてから、アルテーシャの方を見た。
「アルト君、2人の住んでる所に何か送ってもらう事ってできる?」
「僕が直接送るわけじゃないですけど、送る荷物と費用を用意してもらえれば代わりに良い所の次元運送に頼んで送ってもらえますよ」
「じゃあそれで決まり! じゃ今日は2人にはゆっくり休んでもらう事にしよう! 近くまで気球ごと転送してあげるけど、いつもの所で平気かな?」
「そうですね、あれより大陸に近い場所は別途許可を取らないといけないので」
「ちょっと待て、テレポートしてから一番近い飛行場に着くまでどれくらい掛かるんだ?」
不穏なやり取りを聞いた迅が、慌てて操縦者に問いかけた。
「風向きにもよりますが、多分午前3時には宿に着けると思いますよ」
「宿出るのって何時の予定だった?」
「……午前10時には出ないと駄目だな」
2人の術者が気球の中で崩れ落ちるのは、その後すぐの事である。

(……あの2人はそろそろ第7並世に戻った頃かな?)
過去に戻ったその日の昼過ぎに、シャロナは珍しく人と同じサイズにまで縮小を掛けて、サル・パフェーナ大陸を歩いていた。ここまでのサイズにすると不安定性が生じて、サイズを維持できるのが20分あるかどうかという短さのため、滅多にここまでの大きさにならないのだが、浮遊や転移、魅力の行使といった事をしなければ、数時間程度は維持できる事は知っていた。街中に出歩くと、普段自分が凄まじい大きさである事もあってか、色々な人に声を掛けてもらえた。前にこのサイズで街を訪れた時の事を覚えている人もいた。別の大陸から来た人は、自分の住んでいる大陸の良い場所を教えてくれたりもした。シャロナは、そうした人々の事をできる限り記憶に留め、大切な物にしていた。そんな大切な物がまた沢山できた所で、街から離れて大陸の際の方へと出てきた。サル・パフェーナ大陸は元々田舎町の集まりのような場所だったので、街から外れるとそんなに建物は多くなく、住んでいる人もそう居ない。だから、自分が育った家を見つけるのは苦労しなかった。
(ここに帰ってくるの、一体何回目になるんだろう)
たまに頼んで手入れをしてもらっている建物は、たまに修繕が入って真新しい部分が目に入る事もあるが、あの頃の面影はずっと残っているままだった。そんな思い出の詰まった家を横目に、庭を通り抜けて岸の方へと少し出ると、岸の方を向いた墓所が見えてくる。少し前に大規模な修繕が入ったと聞いていたが、確かに墓所を囲む柵は比較的真新しく見える程度の美しさがあった。
(ちゃんと綺麗にしてもらってるんだ、嬉しい)
花束を抱えたシャロナは、年季の入った、しかし慣れ親しんだ、質素な墓標の前に立ち、そこに刻まれた文字を見た。
『エロゾリス・アイスはここでずっと空を見ています』
何度も見てきた代わり映えしない文字の並びだったが、思わずシャロナは微笑んだ。
(パパが眠るちょっと前に、お墓にこうやって書いて欲しいって言い出したんだっけ。本当、もっと他にいくらでも書き方あったのに)
一度目を閉じてから、シャロナは花束を墓標の前に優しく添えた。
「……ただいま、パパ」
岸に向けて風が吹き抜けると共に、おかえり、と聞こえたような気がした。


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