見出し画像

失敗はいいもんだ。 〜失敗したことがない、と言う人の正体〜

「若いうちに失敗しといた方が良いよ」
「失敗は人を成長させる」
「失敗は成功のもと」

なんて言葉を聞いたことがあるだろうか。
私はこの30ウン年生きる間に、それはもう、耳にタコができるくらい聞いたような気がする。

しかし、20代の頃の私はこの言葉たちを見たり聞いたりする度に、こう思っていた。

「失敗するとか、ださい(笑)」
「失敗するのは、準備が足りなかったからだ」
「失敗しないようにすれば良いだけじゃないか」

そうだ。
過去の私は「失敗知らずな人間」だったのだ。

でも、今の私は、過去の私にこう言いたい。

「失敗したことないとか、ださい(笑)」

失敗したことのない人

「私は、失敗したことがない」という人が居る。

「あなたは、何か大きな失敗をしたことがありますか」と問われたなら、自信満々にこう言うのだ。

「特にありません」。

まさに、過去の私のように。

そういう人は大抵なにかに臨むとき、先回りして"これでもか"というほど、万端の準備をする。
しかし、そんなに準備をしたにも関わらず、夜になると不安に苛まれ、眠れなくなったりする。

彼らにとって「失敗すること」はただひたすらに"悪"であり"カッコ悪い"ことである。

だからこそ失敗するわけにはいかないし、例え失敗したとて、それを絶対に認めるわけにはいかないのだ。

実は彼らは実際には、失敗している。
しかし、それを認められない。
なので、「失敗していない」と言う。

これが「失敗したことがない」と豪語する人の、カラクリである。

「失敗を失敗だと認めてこなかった」もしくは「自分を正当化し、失敗したことに気付けていない」ので、"失敗カウント"は、いつまで経っても0のままなのだ。

つまり、「失敗したことないよ」と自慢げにいう人は「失敗することを何よりも恐れ、失敗から必死に逃げている臆病者」だと言えるだろう。

失敗したことがないと言う人=失敗がこわい人

失敗がこわい人は、失敗から逃れるために「予防」と「正当化」をする。

予防は先述の通りである。
どれだけ準備をしても大きな不安が拭えず、それに膨大な時間を費やす。

正当化は、「失敗した後」に彼らが取る、常套手段である。
例えば「これは私の失敗ではない」「だから、私は失敗していない」と、自分以外の失敗だと思い込む、即ち責任転嫁などである。

こうして彼らは、失敗から巧みに逃げ続けるのだ。

失敗は"悪"なのか

しかしながら、失敗は本当に悪なのだろうか。

確かに失敗した姿を見られるというのは、何とも恥ずかしいものである。

特に、"失敗が怖くてたまらない"という臆病な心の持ち主は、「他人の視線」が人一倍気になる人だろうから、それはもう耐え難い苦痛である。

しかし、周りを見てみると、意外とみんな頻繁に失敗していることに気付く。

例えば、有名なスポーツ選手なんかを想像してみて欲しい。

過去のサッカーW杯の試合で、誤ってオウンゴール(自分のチームのゴールにボールを入れてしまうこと)をしてしまった選手を見たことがある。

オリンピックに出場した選手であっても、メダルを獲得出来ない人だっている。

これらは、彼らにとっては、きっと「失敗」なのではないだろうか。

他にもテレビには様々な界隈の"プロ"が映し出されているが、「試合で負けた」とか「試合中に何かミスをした」という話を、何度も耳にする。

それでも彼らはその失敗から逃げず、試合後の会見で悔し涙を流しながらもまた、歩き出すのである。

彼らが失敗から逃げないのは、失敗が自分を更に強くすることを知っているからである。

一度失敗しておけば、それは"未知の恐怖"ではなくなる。
つまり、再び同じ状況になったとき「あぁ、これ前もあったな」と、必要以上に慌てなくて済むのだ。

更に「また同じことが起こった時にどうするか」という対策を考えられるので、被害が出るのを防げたり、最小限に抑えることができる。

また、自分のためだけでなく、他人のためになることもある。同じようなことで失敗して悩んでいる人に、手を差し伸べられたりもする。

「失敗は"悪"である」と言う人の視線は、現在から過去への後悔へ向かい、「失敗は自分の糧になる」と言う人の視線は、現在から未来への希望へ向かっている。

これが、両者の大きな違いであると考える。

失敗のいいところ

「失敗は成功のもと」とも言う様に、悪いことばかりではない。
先述したものも含め、失敗のいいところを列挙してみる。

  • 「経験」として蓄積され、同じことが起こった時に無駄な衝撃を受けなくて済む

  • 対策を練れるため、被害を出さないか、最小限に抑えることができる

  • 同じ失敗で悩む人に手を差し伸べられる

  • 笑い話にできる

最後の「笑い話にできる」は、お笑い芸人などがよく使うテクニックである。
過去に見たコントやひな壇で語っていたエピソードを思い返してみると、失敗談をネタにしたものが多いことに気付くのではないだろうか。

彼らは、失敗談を面白おかしく話し、観客を笑いの渦に引き摺り込む。

失敗で、人を笑顔にしてしまうのである。

もしかしたら彼らは何か失敗したとき、落ち込んだ後に「さて、どう笑い話にしようか?」と考えるのかもしれない。

このように「失敗した!」「最悪だ!」「恥ずかしい!」で終わるのではなく、落ち込んだ後は「この失敗から得られたものは何だろう」と、ポジティブな面について考えてみるのがオススメだ。

直ぐに切り替えられず、暫くは失敗を思い出したりして悶々とした気持ちで過ごすことになるかもしれないが、それも時間の問題である。

もしも「ああ、またあの失敗を思い出してしまった。嫌だな…」となったら、その後に「でも、あれから◯◯ということを得られた。だから、良い経験だった」と続けるのだ。

これを繰り返す内に、「意外と良い出来事だったんじゃないか」と思えるようになってくるはずだ。

余りにもきつかったら、逃げても良い

しかし、「逃げることは」は必ずしも悪いことではない。逃げるのは、自分の心を守るためでもある。

これまで失敗から目を逸らしてきたのであれば、直ぐに「失敗は自分の糧になる」ということを受け入れるのは、難儀だろう。

そういう時は、逃げてしまっても良い。
そして、そうした自分を責める必要もない。

この記事を読んだことで、もし「失敗って悪くないのかもしれない」と少しでも思えていたとしたら、それだけで、以前とは全く違うのだから。

その意識が頭の片隅にあれば、いつかふとした時に、その「失敗のいいところ」が見えるようになっていたりする。
無理矢理に自分の意思と違うことをすると、心に大きな負担が掛かってしまう。
だから本来「いつの間にか自然と、失敗の良いところが見えるようになっていた」という流れの方が、ずっと良い。
なので焦らずに、気長に構えていていいんじゃないか、と思う。

しかし申し訳ないのだが、この「いつかふとした時に、失敗のいいところが見える様になる論」は、何かしらの研究の結果だとか、それを実証するデータがあるとかではない。

ただ、私も、そうだったからである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?