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創作覚書_ゾーエーⅠ

僕の表現では、どうやらいつも"いない存在"について考えてしまうらしい。
でも前からそうだったというわけではおそらくない。
たぶん、自分で自分の作品を演出をするようになって、あらゆる事柄に線を引いてサイズを決定しなければならなくなった時に意識し始めたんだと思う。見える存在と見えなくなってしまう存在(視覚的にという意味ではなく認識として)、外側と内側。
作品作りに際して、そのやり方、劇世界の設定が方法論として決定してしまえば迷わなくなるのかもしれないけれど(それはそれで寂しいが)、まだ迷っている。
愉快ではあるがまどろっこしい。
これはその考察。

演劇とは、“境界線を引くゲームである”ということを前提にした話。
世界にはあらゆるものがあらゆる仕方で存在している。
考え詰めると、重要なのはその存在の仕方ではなく、認識の方にあると思えてくる。認識の仕方に世界の捉え方が現れる。というよりも、認識できたところにしか世界は現れない、とも言える。

先に、現在の所感を書いてみる。“いる”ものと“いない”もの、その両方は、同時に、そして同等にその場所に存在していて認識されているはずである。(Aがいる=Bはいない)

ひとりで歩いた。
自分という存在が歩いていることを認識しているし、そこに他者はいないということも同時に認識している。だからわたしはひとりで歩いた、ことになる。

舞台には4つの存在の仕方があると思って整理している。
・あるもの。(見える、聞こえる、観客の全員が認識しているもの)
・あるけどないもの。(例えば照明音響機材やそれをコントロールしているスタッフの存在、例えば観客自身、例えば劇場そのもの)
・ないけどあるもの。(舞台に登場する大海原、役者の視線の先の夕日、役者の物語上の感情)
・ないもの。(舞台上に登場していないもの、観客の誰ひとり想像も認識もしていないもの)

演劇とは“境界線を引くゲームである”という定義の内容は、この4つの存在のケースを自在に行き来する/させる遊びのことだと思っている。
物語、および文章は、あらゆる道筋を平面的に進んでいくことはできず、直線的に進んでいくことになる。その中でふるいにかけられて描かれない事象は多く存在する。
そういった事柄に対しての偏りや、正義と悪が産まれること、物事を多面的に見られなくなることに対してのカウンターとして、境界線のゲームは有効であるし楽しい。

もちろん舞台もこの現実世界の一部ではある。
ただ、フィクションという共通の前提を元に、その存在の仕方まで劇世界ごとに(演出家ごとに)設定できるから面白い。その劇世界のあり方は、舞台の機構や脚本の書き方にまでじわじわと影響を及ぼすことになる。

いわゆる演劇の、そのもっともっと手前のところから話すと、僕たちの劇団が公園という場所を上演の場として選択していること、そこにも同様の意味での影響がある。
公園=公共の場。
現代社会において、あらゆるものがフラットに共通の存在として享受できるものを公共と呼んでいる。残念ながらそれ以外の事柄については所有や権利が張り付いている。(“公共”にはそれらが張り付いていない、とは言えない。“公共”はおそらく、行政だけがつくりだす定義ではない。そのあり方は勉強したい。)
かろうじて、それらのしがらみから解放されて、直線的な見方に偏らず、あらゆるものが平面的にいられる場として、一旦、公共というものが設定されている。
その定義に一旦頼る。
そうすると、公共とは、あらゆるものが存在しうる場ということになる。つまり、ここにないものはない(入ってこられないものはいない)、ということ。

ここには、あらゆるものがある。
そこから劇(創作)を始めるというのが、まず最初の思考。

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