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創作覚書 小さな演劇の大きさについて

2020 佐々木敦著

演劇というのは境界線を扱う行為(ゲーム)である。
必ずしも作家がそのことを考えていなかったとしても。
必ずしも作品の主題がそうでなかったとしても、演劇は常に境界線を扱っている。
演劇におけるドラマの所在は常にそこにある。

何と何の境界線を描いているか。
最も単純な答えは"現実と虚構"ということになる。
役者は生身の人間で、必ず自身の生活を引きずっていて、その生活と役の人生を重ねて生きることになる。だから役者の身体には実人生と虚構としての人生が送られることになり、その2つの人生を、時間(本番とそれ以外)で区切る捉えもあるし、膜のようなものを重ねると捉えることもある。
舞台を上がればそこには自分の人生など存在していないかのように役が体に憑依して…なんていうことだけが必ずしも役者でないし”演じる”ということでもない。その境界線を探ったり歪めたり重ねたりすることが演劇という芸術の行なっていることでもある。

その他にも境界線はある。
例えば劇場。劇場には客席、舞台、舞台裏、楽屋、調光室、舞台機構など、なくてはならない物理的なスペースがあるわけだが、作品においてはその境界線を扱うことになる。
一般的には作品は舞台上にある。それはほとんど全てがそうだがこれも演劇の特徴として、演劇の作品としての広がりは必ずしも舞台上に留まらずにその境界線を広げることも縮めることもできる。実際に役者が移動したり、舞台美術が空間を飛び出したり、演出として観客自身が劇の参加者になることだってある。
だから、演劇の作品というのはその境界線をどのように区切るのか、また操作するのか、というところに面白みがある。
時に裏方たちが姿を現し、時に舞台の後ろの幕が開いて街並みが作品と一続きになる(テント芝居)など。
絵画や音楽、映画、小説と少しづつ違い、演劇は生身の体験としてその境界線を扱うことができる芸術である。

その他の境界線として、時間というのもある。
時間。つまり、上演時間、ということでもあるが、演劇の作品としての時間は一体どこにあるのか。
それは大概の場合が、本番時間である。
19時から開演する場合は19時から、舞台上は”作品”ということになる。
照明、音響、役者とセリフが立ち上げる劇世界によって、その場所は確かに今までとは違う舞台としての存在感を放っていると感じられるから面白い。
ただ、それだけでもない捉えがあるからこの時間も演劇の境界線として扱われる素材となっている。
まず、演劇における"時間"というのは必ずしも本番の時間だけなのだろうか。
実人生における、演劇的な瞬間というのはたくさんある。
学校の教室もそうだし、集会、講堂、裁判所、結婚式、式典など。
それらと実生活を分つものはなんだろう。
そもそも演劇の起源として始まったものがそういった集会的な行事だったとも言える。
そしてその行事は劇場建築の発展や照明機材を中心とする技術の導入、演劇を必要とする人物(国王、宗教家、作家、市民)の立場の変化で時代と共に移ろってきた。今一般的な意味で劇場で見られる演劇というものは近代西洋文化としての演劇だし、今伝統として受け継がれてきている祭りの演奏や舞というものは東洋文化としての演劇的なものとして捉えられる。
そしてそれらの変遷の中で時間という概念も変化しながら今日まで辿ってきているわけであるが、昨今の潮流としては、その時間の区切り、主に本番のみを演劇的に扱うという概念も希薄になっているように思われる。
区切られていた時間(本番)が溶けて日常に演劇が浸透していく。
もしくは、常に継続しているもの(稽古)としてその経過を表明するものとしての本番(ワーク・イン・プログレス)の時間というものと捉える動きもある。この辺りは違う項目として別の機会に取り上げたい。

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