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8:ななこ、高校を卒業する

高校三年生になってから半年近く寝たきり生活を続け、学校を休み続けました。休んでいる間も病院巡りは続けていました。母は良い頭痛外来があると聞けば、飛行機に乗って遠方の病院にも診察してもらえないか掛け合ってくれたりもしました。しかし、相変わらず原因不明、合う薬も見つからず、治療に結びつくようなとっかかり一つ見つけることはできませんでした。

高校は卒業した方がいいだろうと思ってはいましたが、そのことに関心を持つ余裕すらなくなっていきました。毎日の痛みに耐えることで精一杯で、自分が元気になる未来が全く描けず、「高校卒業」はふわふわした遠い世界の話のようでした。ですが、両親が高校を卒業できるように頑張ってみないかと強く言ってくれて、それに背中を押される形で卒業のためにもう一度学校に行くことにしました。学校にも対応してもらえたおかげで半年ぶりに学校に復帰し、卒業に必要な授業や課題を何とかこなすことができました。周りの人たちに対応してもらえたこと、迷惑をかけてしまいましたが無事に卒業できたことが、ありがたかったです。

私の高校生活は何を成したわけでもない平凡なものでしたが、もっと早い段階で学校というレールから外れていてもおかしくなかった私にとって、経験するはずのなかった時間を過ごし、味わうはずのなかった感情を知ることができた貴重な時間でした。部活の大会、文化祭、体育祭、友達と過ごしたたわいのないたくさんの時間。青春を経験してみたいという好奇心一つのために学校に通い続けて、天国と地獄をいっぺんに駆け抜けているような日々でした。

皆と同じ制服を着て過ごしたあの日々。自分と他人との境界が曖昧で、濃密で、鮮烈な感情に満たされていたあの日々。皆が当たり前に属する集団に、私も当たり前に属したかった。普通になりたかった。程度の差こそあれ、誰もが何かが不足したり過剰だったりする歪な日常の中にいて、突き詰めていけば「普通」と呼べるものがどこにもないだろうということは分かっていました。それでも同年代の大多数が当たり前に行っていることは、私にとっては眩しいほどの「普通」でした。

朝には痛みなく目が覚めること。吐き気なく食事を摂ること。痛みや倦怠感に耐えることなく毎日学校に行き、耳鳴りのない中で友達と会話すること。皮膚疾患のない綺麗な表皮に守られた手を使って生活すること。痛みの中で気絶するように意識を失うのではなく、一日の疲れを回復するために眠りにつくこと。そしてそんな毎日を、疑うこともなく当たり前の日常だと思えていること。

そんな「普通」を夢見ながら、現実との落差を前に立ちつくす日々でした。友人たちは若さと健康を惜しむことなく消費し、どれだけ消費してもなお豊かに湧き出てくる生命力を持て余してさえいるようでした。学校のあらゆる場所、教室や廊下、体育館、非常階段の踊り場、グラウンドへの抜け道にも、彼女達から溢れ出る生命力の欠片が降り積もり、キラキラと輝いていました。せめて他人が見る自分は「普通」でありたいと地面に落ちるそれを拾い集めてみても、血と膿が滲む私の手が触れた途端に輝きを失っていきます。あの生命力の輝きを身に纏うためには、自身の内から汲み出さなければならないようでした。ですが枯渇した井戸しか持たない私は、何度そこにバケツを投げ込んでみても井戸の底にぶつかる乾いた音が響くだけで、何一つ汲み上げることはできませんでした。

集団に属していることを疑いもしない周りを眩しく見つめながら、その一員になりきれないという疎外感が私の足元にいつも冷たく横たわっていました。集団の中から投げかけられる相手の「優しさ」や「正しさ」は、境界線を越えて私に届く頃には歪に捻れてしまうのです。同情。高圧的な全否定。相手にだけ都合のいい優しさの押し付け。私も同じ集団の中にいられたのなら、これらを相手の目に映る美しさのまま受け取ることができたのでしょうか。境界線を一歩跨いだ場所にいるだけなのに、この一歩がこんなにも遠い。誰ともまっすぐに繋がれない。

そんな社会の中でできるだけ傷つかないように過ごしていくためには、体調に関して誰にも話さずに、「元気で普通な私」だけを周りに提供することが一番有効な方法のように思えました。外からは「普通」に見えるように、どんな時でも精一杯振る舞ってきたつもりです。そうやって理解してもらうこと、受け入れてもらうことを諦め、痛みを一人で抱えることを決めたのは自分なのに、そのことを寂しいと思う自分の甘さに傷つくという連鎖の中に立ち尽くしながら、きっとこの独りよがりで果てしのない連鎖を孤独と呼ぶのだと思いました。

私はどうすべきだったのでしょうか。世間が言うように、辛さを一人で抱え込むことなく然るべき誰かに相談し、適切に対処していくべきだったのでしょうか。ですが「然るべき誰か」とはどこにいて、「適切な対処」とは何なのか、提示してくれる人は誰もいませんでした。

「然るべき誰か」とは誰だったのでしょうか。
医師でしょうか。これまで何十人もの医師の診察を受けましたが、具体的な病名もつかずたらい回しになり、「気の持ちよう」と言われるだけでした。

親でしょうか。親がどんなに心配してくれても、体調の問題を治すことはできません。むしろ家族という繋がりと愛情の中で逃げ場もなく苦しみは深まり、未来の見えない毎日に一緒に取り残されて、傷つきあうだけでした。

教師でしょうか。カウンセラーでしょうか。友人でしょうか。誰に相談したところで、その場限りの優しさや思いやり、同情を向けてもらえることはあっても、私の人生の責任を引き受けてくれることはありません。相手に負担をかけず、依存せず、搾取されない健全な関係を作ろうと思えば、私の不健全さが浮き彫りになって孤独感が強まるだけでした。

「適切な対処」というのも、言葉にすれば簡単な一言です。ですがそれを何年も探し続けて、見つからないのです。

「然るべき誰かに相談すること」も「適切に対処すること」も、辛く苦しい日々に対するあまりにも正しい答えでした。ですがそれは、概念の世界にしか存在しない正解であり、現実的な解法がない限り救われない私にとって、とても残酷で暴力的な正しさでした。まるで顔のない怪物が、ありったけの「正しさ」を武器に襲いかかってきて、私を踏み潰していくようでした。

どんな愛や優しさをもってしても、この痛みを他人と共有できないことなんて分かっていました。だから全てを理解してもらうことなんて、望みませんでした。理解できないものを含んだ私そのものを信頼してほしかった。理解できないことは理解できないと、ただそう言ってもらいたかった。震えるような気持ちで、この言葉を探し続けました。ただその一言で全てが報われるような、私と世界がもう一度繋がれるような気がしたのです。ですが、この言葉をかけてくれる人はどこにもいませんでした。

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