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5:部活

ひたすらバトンを追いかけて、音の中に飛び込んでいく日々。痛みも、誰にも届かないまま腐っていく言葉も置き去りにして、まっさらになった私の体を音楽でいっぱいにする。バトンが回り続けている間は、私も止まることなく生きていけるような気がしました。踊っている間だけは、痛みを理解してもらう必要はないし、理解してほしいとも思わない。自由というものがあるのなら、それはこの瞬間だと思えました。

私の毎日は、痛みに耐える瞬間の連続に過ぎませんでした。過去と未来はばらばらに砕けて散らばって、痛みに満ちた無数の「今」があるだけでした。でも投げたバトンは、私の手の中に戻ってくる。今投げたバトンは、未来の自分がきっと掴む。過去と現在と未来は繋がっていて、流れる時間の中で私は生きている。バトンはそれを体感できる唯一の手段でした。

踊ることで、体調が悪化していることは分かっていました。踊れば踊るほど痛みは増して、バトンに触れれば触れるほど手の皮膚はぐちゃぐちゃになっていきました。それでもやめたくなかった。いつまでも踊っていたかった。踊っている間だけは、痛みを忘れられたから。私は、痛みを忘れられる唯一の瞬間を手放したくありませんでした。きらきらと光りながら落ちてくるバトンは、自分の未来の破片のようでした。バトンを掴み続ければ、いつか私にも未来が開けるんじゃないかと思えました。痛みに埋め尽くされたまっくらな毎日の中で、バトンだけがきらきらと光って、飛び回っていました。私は、そんなバトンが大好きでした。

大好きだと思っていました。どんなに痛くても、バトンが好きだから毎日を頑張れているのだと思っていました。自分の「好き」という感情にしがみついて、美しいはずのその感情を血と膿で汚していっていることには見ないふりをしていました。「好き」という感情が、私の全てを支えているのだと思いたかった。本当は私の全てで「好き」という感情を押しつぶしているだけかもしれないのに。
「好きなことなら頑張れる」
美しいこの言葉を、健全に身に纏える自分になりたかった。好きという感情に確信を持てる自分でありたかった。いつだって痛みがあることを前提に、全ての判断をしなければならない。そんなことを繰り返すうちに、だんだんと私の人生の主体が「私」から「痛み」にすり替わっていく。少しずつ人生が痛みに侵食されて「好き」というシンプルな感情すら見失っていくことが、恐怖でした。

この感情が純粋に「好き」と呼べるものなのかすら、もうわからない。「痛みを忘れられる」という一瞬の陶酔を手放せないのは、不健全な依存ではないのだろうか。私はバトンを通して、痛みから離れた夢の世界に潜り込んでいるだけなのではないだろうか。私はバトンが好きなのか、それとも現実逃避の手段として依存しているだけなのか。こんな二択が頭に浮かぶ時点で、この感情は「好き」ではないのか。どこからが美しく、どこからが不健全な感情なのか。好きと依存、健全と不健全の線引はどこにあるのか。わかりませんでした。

痛みのない自分が本当の自分なのだとしたら、今ここにいる私は偽物なのだろうか。もし痛みがなければ、私は今どこにいて、何をして、何を好きだと感じているのだろうか。想像もつかないけれど、きっと今の自分とは全く違う人間のはずだったと考えてしまう。確かなことは、バトンに打ち込む程に体調が悪化しているということだけでした。

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