見出し画像

風呂に入りたくない

風呂に入りたくない、と思ってしまう原因を探してみる。風呂場が寒いのが究極に関係していることはわかっていて、正直それ以上はない。なんなら風呂場へつながる廊下も寒いのが本当に最悪なのもわかっていて、それ以下もない。Q.E.D.ってめっちゃ使いたい時期あったな、推理小説って十代でハマると大体イタい言葉ばっかり覚えちゃうから邪悪。だけど推理小説が大好きだしこの場合はマジでQ.E.Dって感じ。

原因が分かったところで、インスタグラムでアメリカの人たちは数日に一回しか髪の毛を洗わないとかシャワーを浴びないとかそういうリールを観て「衛生基準は人次第、もっと言えば文化次第。それで言えば冬なんて汗もかかないし湿度も低いし、そもそも体臭がキツくない日本人はそんなに頑張って風呂に入らなくても大丈夫なのでは?石鹸メーカーが作った間違った習慣なのでは?」なんてことまで考えて自分を肯定することも可能なわけで。ありがとうショート動画、心地よい麻痺に拍手を。これで近場に銭湯でもあれば寒いよりもデカい浴槽へ入れることの方が勝ってスマホを手放す気持ちにもなるんだろうけれど。銭湯は自分で栓を抜いたり洗わなくていいというのもデカい、500円払えば好きなだけあつあつの風呂に入れるなんてサービスには流石のめんどくささも勝てない。入湯税が上がったとて銭湯の価値は変わらない。とはいえ徒歩圏内には全く銭湯がない。私が住んでいる沿線はある駅からポッカリと空白になっていて、一つも銭湯がない。多分、銭湯を作るほど元々は人が密集して住んでいなかったのだろう。これが冬場じゃなければ歩いたりチャリに乗ってもいいが、冬場はどちらもアウトだ。湯冷めするために熱い風呂に入る馬鹿はいない。なのでやっぱり風呂に入りたくない。

ああ風呂に入りたくない、圧倒的風呂への忌避念慮。鬱になった時も風呂に入れなくなったが、精神が持ち直した今も風呂に入ることへの抵抗感だけがずっと居座っていてどうにも折り合いがつかない。当時と違うことで言えばあの時は風呂に”入れなかった”のが今は風呂に”入りたくない”という不可能と拒否の違い。たぶん鬱から回復したことで自己肯定感が少しだけ上向きになり、風呂に入れないという状態を肯定的に考えるようになった結果の”入りたくない”なのだ。その前ももちろん風呂は面倒だと思っていたけれど、それよりも風呂に入らない自分への拒否感が強かった。不潔なままでいる自分への許せなさや社会人としての最低限の習慣としての入浴。しかし一度社会から脱落してみると風呂に入っていようがいまいが社会に対しての申し訳なさなんて大差ない(存在として申し訳ないわけでそれが風呂に入ったり入らなかったりしたところで大して変わらない)ので、別に風呂に入りたくない/入らないという気持ちや選択に対して全く後ろめたさがない。いや、ないと言っては嘘になるけれど一日くらいだったら正直全く動揺せずに「毎日お風呂に入ってますけど?」みたいな挙動でしっかりとした社会生活を送ることもできる。

ここまで書いて墓穴を掘ってしまったのは『一日くらいだったら』と言ってしまったこと。実は昨日も風呂に入ってない、いや正確には寝てしまった。いや嘘、日曜日で家から一歩も出てないしU-NEXTでエルピス観るかちょっと仕事するぐらいだったから汗なんて一ミリも出る理由がないし髪の毛もずっとさっぱりしていたので「大丈夫かな」と思ったのだ。入りたくないというか「大丈夫かな」である。「入りたくない」と「入らなくても大丈夫かな」には微妙な違いがあるけれどそれを除けばほとんど同じなので差異よりも一致する部分を重視してみる。重視ってほどでもないか、まあつまり昨日も風呂に入ることを諦めたのだ。

ただ流石に二日目となると三十歳手前にもなってこんなことでゴネていることはめっちゃダサいことだって分かってくる。分かってます、分かってるんだって。風呂なんか入っちゃえば20分もかかんないし入ったら入ったで体あったまるし気持ちいいし、頭がちょっと脂っこいのもスッキリするわけだし。もういいや諦めよう、風呂に入らないことを諦めようよ。風呂に入りたい気持ちになるまでこの文章を書き続けようとしたけれど書き続けることのほうが大変で風呂に入ってしまったほうがよっぽど楽だよ。風呂に入りたくない気持ちを文学や哲学と結びつけて引用してこれを引き伸ばす頭も体力もないし、暖房が効きすぎて喉が渇いてるんだったら水飲むついでに風呂入っちゃいなよ。風呂はいろ、文章書き続ける面倒くささの方が勝ってきたからここらでお暇しよう。熱々のシャワーで汚ねえ脂を流して疲れた身体ほぐそう。そしたら文章書くのなんてどうでもよくなってそのまま寝れるから。よし風呂はいろ、この勢いではいろ、note公開して入ろ。


いただいたサポートは文化・娯楽へすべて注ぎ込みます