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亡き母が遺してくれた第二の故郷〜宮古島&血の繋がりのない大切な家族。

◆写真は宮古島に繋がる下地空港周辺の海◆
 記事内の写真は本人撮影。

今年のゴールデンウィークは、長い休みが取れたので私の第二の故郷、沖縄県宮古島へ飛んだ✈️

実に3年ぶり。

コロナ禍が始まってから、感染者が減った時期に行けるかなぁ〜と思ってチケットを取ってはキャンセルしてを3回くらい繰り返し、ようやく今年になって実現した。

私にとって宮古島は第二の故郷と呼べる場所。

私の記事を読んでもらってる方々は既にご存じの通り、私は訳あって、自分の本来の生まれ故郷、熊本には帰れない状況なのです。
普通、話はここでおしまい!となるのでしょうが、私にはもう一つの故郷があるという話を、
今日は書きます♪


宮古島の海と雲


今は亡き母が、生前うつ状態になり療養の為に
宮古島に住んでいたことがあった。その頃の母は、精神的にひどい状態で、私もどう扱っていいか分からず、そんな遠くの離島にひとり置いといて良いものかと随分悩んだりもした。

私も幾度となく母の元に通い一緒に過ごしたが、ずっと居ることは出来ないので、母が一人でいる時間も長かったのだけど、そんな母を島の人々は温かく迎えて面倒を見てくれた。

都会の希薄な人間関係の中で暮らす私には、信じられないような関わり方に驚いた。

宮古そばの店主をしているおばぁは、母の家まで食べ物を運んでくれたり、母の食事を滞在中ずっと気にして面倒を見てくれた。そして、自分が参加している体操教室や英会話教室にも誘って連れ出してくれた。

また、友達になった地元の女性は、ひとりでいる母を何かと心配してくれ、弁当を作って外ランチに連れ出したり、時には、コンビニで買ったおでんを二人裸足になって海辺で食べたりしたそうだ。母を放っておけなくて、迷惑な顔ひとつせず毎日付き合ってくれていた。

これはほんの一例で、他の人達からもたくさん気にかけてもらい、寂しい想いをすることなく過ごせていた。

母は、毎日私に電話してきて、島の人達の親切を楽しそうに話した。生前の母は、自身の生い立ちや生活環境の影響もあり寂しい人で、温かな愛情に飢えていた。

だから、コンビニで買ったおでんを裸足になって海辺で食べるという、他の人にとっては普通なことがとても嬉しかったんだと思う。

母は、宮古島で過ごした後、自宅に戻り2年後に亡くなったが、人生の最後に島の人達から、自分が本当に欲しかった温かな愛をもらえて幸せだったと思う。

建設中の橋の先に沈む夕日


その亡き母が繋いでくれた、宮古島の人々とのご縁を私が引き継ぎ、今に至っている。

宮古島とご縁が出来た頃の私とがじゅまる。ピンぼけの写真しか残っていませんでした。


宮古そばのおばぁは、去年亡くなったけど、それまでは実の家族の様に可愛がってもらった。
いつも、

上がってけ、食べてけ、泊まってけ、

と言っていた。二人で散歩したり、優しい島時間を過ごしたことが、私の中に温かな思い出としてしっかり残っている。

そして、おでんの女性、るみ子さん(仮名)は
今では私のお姉さん。
誰よりも信頼している、大好きな人。
るみ子さんは

「血の繋がりだけが家族じゃないよ」

と言う。

この言葉を聞いた時、私は母が残してくれた物の大きさに気付いた。母は、自分亡き後、私が孤独にならないように、ちゃんと新しい家族を残してくれたのだと感じる。

この、るみ子さんの存在がなかったら、私はきっと孤独を感じていただろう。

遠く離れた場所でも、自分を家族のように思ってくれる人がいる。それだけで、胸が温かくてしっかりと立っていられるものだ。

私は、血の繋がりのある家族には恵まれなかったけど、血の繋がり以上に大切に想い、想われる家族に恵まれた。

捨てる神あれば拾う神あり。

だから人生は面白いし、腐らずに生きていける。


ここで話を最初に戻すと

私は、空港に着くとすぐに「今、着いたよ〜」とるみ子さんへ電話した。すると、開口一番

「おかえり〜」
という言葉が返ってきた(^-^)

 ここから、私の温かな島時間が始まった。

島のがじゅまるの木

いつも、島から東京に帰ると「魂を置き忘れてきた〜」と言って、しばらく都会の生活に適応できなくなる私。笑。

今年のゴールデンウィークは、仕事のことはスッパリ忘れて頭を空っぽにしてリフレッシュできた
\( ˆoˆ )/

そして、またがんばって働いて
家族に会いに行きたいと思っている♪

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