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痴漢史

今日、久々に痴漢にあって驚いた。満員電車の中、身体の距離0ミリの背後にいたサラリーマンが健気にスクワットをしていて健康志向だなあと思っていたところ、私のお尻の部分に性器が当たるように動いている事に気づいた。不健康な人だった。

でもそうだよね。こんな息もできない満員電車の中でスクワットなんかしないよね、と妙に納得してお尻の間に男性器が軽く挟まりながら二駅通過した。後ろを向いて顔を見ようかと思ったけれど、怖くて出来なかった。身長は170センチほど、おそらく30代後半だった。丁度、少女売春についてのルポを読んでいたから怖い、とか気持ち悪い、を通り越して、見知らぬ男性の性的対象になっている自分、を物凄く客観的に見てぼうっとしてしまった。でも、こうして文字にしてみるとひどく気持ち悪くなる。

今まで電車内で痴漢・もしくは性的に嫌な思いをしたのは今日合わせて4回ある。

1回目は小学校1年生の時。目の前の男の人が、肌色の傘の持ち手の部分を上下に首を動かしながら舐め回している光景を見たこと。強烈だった。でも、それが、傘の持ち手の部分なのか何なのか小学生の私はよくわからなかった。それに皮が覆いかぶさって彼が首を上下に動かすたびに、それがぬるぬる一緒に動いていたから。今思うと、あれは彼自身の男性器だったんじゃないか、と思うけどそんなことあるのだろうか、と今でも忘れられず早10年以上経つ。

次は中学生の時。また傘に纏わるエピソードになるが、満員電車の中、隣に立っていたサラリーマンの持っていた傘の持ち手部分が常に私の性器に当たっていた。最初はアクシデントだと思い、何度も足の位置を変えて、それが当たらないように身体の角度を調整したけれど、何をやってもその持ち手部分は私のそこに当たる。サラリーマンの顔を見上げると、彼は遠くを見ていて私の方なんて見ていない。この人故意でやってるんだ、とどうしようもない怒りが溢れてきた都営新宿線。

次は23才の中央線。あまりにもハードな1日で頭も身体もぼうっとしていた中、人気のない終電で、ドアの近くで1人で立っていた。空いていたにも関わらず、妙に私の近くに立っている男性がいた。だけど、中学生以来痴漢に合っていなかったから少しも気に留めていなかった。その日、私は膝丈くらいのワンピースを着ていて、疲れのあまり、少しだけ足を曲げた。その時だった。性器に虫がべったり止まってることに気づいた。虫?え、蝉?あまりの違和感に下着の上、つまり性器の側面に蝉が止まってるなんて勘違いした自分、今思うと失笑物だけれども、性器に、べったりと何かがはりついていた。木にとまる蝉のようにそれは動かない。なんと、それが隣にいた男性の手だったのである。その人の手が、自然に、私の身体と同化したように下着にはりついていた。一切それを動かさないから、疲れのあまりに手を入れられていたことにも、触られ続けていたことにも気づかなかった。あっと声を出して、その人から離れ、顔を見ることも怖くて別の車両にうつった。その人の行動力に感動さえした。凄いな、そこまでして触りたいんだな、と。

若い女性として生きていくって、妙に面白いなと思う。若い女性を扱う男性たちは面白い。嘘。実は全然面白くもなんともない。本当は心底気持ち悪いし、触ってほしくないどころか、キスがしたい、なんて思ってもほしくない。思っていることが分かってしまうだけでも、それなりに不快な気持ちになる。でも一回一回傷ついていたら心が持たない。バイトでウェイトレスをやっていた時、毎日のようにセクハラに合っていたことを思い出した。彼氏いるの?という軽い質問から、胸からミルク出してよ、それを飲みたい、と注文されたことまで。ミルクどころか、愛液を注文されたことまであった。普通のレストランで!呆れや不愉快を通り越して、一種の感動を覚えた。男性はこんなものだ、と思うことは嫌だし、女性はそう扱われるものだ、と納得することも嫌。でも、そう思わざるを得ない局面が人生には多すぎる。

街中で呼吸をしているだけで、歩いているだけで、働いているだけで、どこか審査されているような気分になる。痴漢だって、きっと人を選んでしている。誰を触りたいか、触れそうか。抵抗しなさそうか、気が弱そうか。小学生の時、男子生徒がどの女の子が一番可愛いか、そんなくだらない、でもいつも何故か盛り上がってしまう論争の結果が苦しく聞こえてきてしまったときのような感情を思い出す。

今読んでいる本によると、出会い系サイトにログインする男性の数は女性のそれと比べて約4倍。アダルト掲示板だと約7倍。女性にだって男性と同じように性欲はあるけれど、その差は数字にすると歴然。出会い喫茶や相席屋で女性が無料なのも頷ける。この欲への露骨さ・貪欲に置ける性差が、最近は不思議でならない。一度、男性になって、電車で全く知らない異性の身体を触らずにはいられなくなるほどの衝動に掻き立てられてみたい。でも、それは衝動というより容認してしまう社会への甘えであり、本来なら、許されるべきなんかじゃない。

なぜ、痴漢に対して、やめてと言えなかったんだろう。映画館や劇場では注意出来るのに、今まで彼らに対しては一度もやめてとは言えなかった。理由を考えた時、1) 面倒だから 2) 次に用事があり、時間をとられたくないから 3) ハプニングだったのではないか、と自分を疑ってしまうから 4)単純な恐怖心 の他に、可哀想だな、もしくはどこか可愛いなという感情が生まれてくるからかもしれない、と今日思った。可愛いな、は少し違う。ああ、男の人だな、という言葉が一番近いかも。そう思えてしまうことが果てしなく女っぽくて、厄介で、なんだか逃げ場がない。この事実に気づいてしまうと心底嫌な気持ちになる。

一年前、ロンドンでセクハラ被害にあいつづけた時と同じ結論に至るけれども、私もやはり社会に飼い馴らされた女であり、でもそこに対して自殺したくなるほどの苦しさも、なんだか麻痺していて感じない。これが大人になったからなのか、諦めなのか、それとも私自身の性格なのかはよく分からない。

何週間か前、「ブサイクな女とヤる時は彼女の顔を何かで覆いたくなる」という言葉を聞いて、驚いたことに目元が一気に涙で濡れた。衝動的に泣いたのは久しぶりだった。もしかしたら、本当に麻痺しているだけで、私や他の女性が抱えている傷はもっと奥深く、簡単には手の届かない所に潜んでいるのかもしれない。カーテンで覆われた窓のように、それは日常生活という風に揺られて見えたり見えなかったりする。決定的な地雷なしには、何が実際にそこにあるのかは分からない。本当は、思い切りそれを両手で引き千切って、中に何があるのかを発見したい。だけどそれと対面したら壊れてしまいそうな気もする。だから、声だってあげられない。許しという簡単な場所に逃げ込んでしまう。それが今、凄くもどかしくて、苦しい。

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