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元々白人のサンタを黒人がまねるのを批判すると人種差別。一方有色日本人の着物を白人が着ると「文化盗用」で人種差別。即ち、白人文化→有色人種はOK。有色人種の文化→白人はNG。これぞ「文化盗用」の名を借りた「有色人種の真似はするな」という白人優位主義だと思う。 ●「黒人サンタ」の飾りに差別的な匿名書簡 米南部の住宅地 


米南部アーカンソー州ノースリトルロック市の住宅地で自宅前に黒人のサンタクロース人形を飾った一家のもとへ、人種差別的な匿名の書簡が届いた。近隣では一家への応援を込めて、黒人サンタを飾る動きが広まっている。
クリス・ケネディさんと妻子は3年前にここへ引っ越してきてから、毎年この時期に高さ2メートルあまりの黒人サンタの人形とクリスマスツリー、大きな「JOY」の電飾文字を飾ってきた。
ところが今年はこの飾り付けをめぐり、26日の米感謝祭直前に「サンタクロース」を名乗る書簡が届いた。「子どもたちにサンタはニグロ(黒人)だと思い込ませようとしてはいけない」「おまえが私の人種をねたんでいるからといって、うそをつく言い訳にはならない」などと書かれていた。
ケネディさんはフェイスブック上のライブ配信で、怒りをこらえながら書簡を読み上げた。この町を出て黒人の住む地区へ行けとも書かれていたという。 ケネディさんはまた、白人のサンタが両手の親指を下に向ける否定的なポーズを取った画像と、封筒の表に張ってあったマークも公開した。持ち家世帯の自治会組織のマークに似ていたが、同組織の責任者は関与を否定し、一家への支援を表明した。
市内のほかの地区からも、同じような差別の経験談が寄せられた。同市では黒人が人口の半数近くを占める。差別行動の裏には政治的動機もあるのではないかと、ケネディさんは指摘する。
ケネディさん宅の通りに並ぶ家はそろって庭に黒人サンタの人形を置き、自治会も事務所に飾る黒人サンタを注文した。ケネディさんは同じような差別と闘う全ての人々に向けて、「それでも世間には愛情あふれる優しい人たちがいる」と呼び掛けた。
●2015年、ボストン美術館の「キモノ試着イベント」が中止に 理由は人種差別、白人至上主義?【抜粋】


ボストン美術館は7月7日、巡回展で行われていた着物の試着イベント「キモノ・ウェンズデー」を「人種差別だ」という抗議を受けて中止にした。
中止となったのは、クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」の前で着物に触れてみたり、試着して絵画の前で記念撮影できるイベント。ソーシャルメディア上で「文化的に無神経で人種差別だ」との抗議の声が広がり、美術館の現場で抗議する人たちも現れた。批判はさらにエスカレートし、「用意された衣装は正確に言うと着物ではなく打掛だ」という抗議まで起きている。

クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」
「ラ・ジャポネーズ」は、日本芸術を愛したモネが、妻のカミーユ・ドンシューに扇子と着物を着せてポーズをとらせている1876年ごろの絵画作品。1870年代にパリを席巻していた日本ブーム「ジャポニスム」の代表的作品だ。「キモノ・ウェンズデー」では、来館者に似た服装をしてもらうことで「自分の中のカミーユ・モネを呼び起こす」ようにしてもらうことが目的だったという。
奇妙なのは、この作品が「ジャポニスムをバカバカしい、フェティズム的な流行として風刺したもの」とたびたび解釈されることだ。ボストン美術館は、その当時のオリエンタリズム(東洋研究、東洋趣味)について議論を活発化させる代わりにその作品自体のちょっとしたフェティシズムの論争を巻き起こしてしまった。
今回の抗議を行った「Stand Against Yellow Face」は、Tumblrでこの作品の"白人至上主義的な側面"についてくわしく説明している。
「モネまでもが批判されたもので人を呼び集め、ドレスアップさせ、参加させることに何の価値があるのか? 日本人女性の経験をさせたいのなら、なぜ葛飾北斎の浮世絵を選ばなかったのか? あるいはどうして1870年代のブームに関して歴史的な文脈や批判を議論にしないのか?」
直接美術館に抗議しに来た人たちは、こんなメッセージを掲げていた。
「着物を着てキュートでエキゾティックに見えたとしてもあなたはレイシストではない。ボストン美術館がこんなサポートをする以外は!」
「Stand Against Yellow Face」のFacebookページには、「着物の起源、歴史、使用方法、そして当時の日本社会での重要性について説明されていない」と書かれている。
「日本人ではない美術館職員は、訪問者に着物を放り投げるように渡すし、"コスチューム"イベントだと思っている。
これはアメリカ国内のアジア系アメリカ人としての私たちのアイデンティティや経験、そして歴史に対する侮辱であるばかりか、社会全体に固定観念を植え続け、今の私たちの声を否定し続ける影響もある。博物館の職員と訪問者が、こんな白人至上主義の"コスチューム"イベントにはよく考えて参加するよう望む」
「Stand Against Yellow Face」のTumblrでは、なぜ、日本の伝統衣装がこのような形で展示されるのか、その「背景」についても詳しく述べている。イベント自体は攻撃的でなくても、損害を与え、精神的に傷つけるものだという。
「オリエンタリズムの影響で南アジア、東アジア、そして中東の伝統的なさまざまなカルチャーがエキゾティックになる。そしてその結果、現在まで攻撃的な姿勢がオリエンタリズムの人々に向かい続ける」
ボストン美術館では、なぜ日本風の衣装を着ることが事件になるのか、素敵な対話が7日に行われた。
7日、ボストン美術館は声明を発表し、プログラムを変更して訪問者には着物に触れたり、ディスプレーで歴史的に正しい着物の知識について紹介するとしながらも、着物を着る内容は停止した。
ボストン美術館のケイティ・ゲッチェル副館長はイギリスの「オブザーバー」紙の取材に、「キモノ・ウェンズデー」は日本の東京・世田谷美術館や京都市美術館、名古屋ボストン美術館などで「ラ・ジャポネーズ」が貸し出された時、同様のプログラムが好評だったのである程度は成功するだろうと思っていたと述べた。
7日の声明で、ボストン美術館は不快に感じた訪問者に対して謝罪した。抗議したアパルナ・"パンピ"・ダスさんはBBCの取材に対し、ボストン美術館の声明は出たが、公式に謝罪するまでは抗議を続け、抗議側の人間を含む形で公開の討論会を行うと述べた。
ボストン美術館はハフポストUS版からのメールでの取材に対し、抗議する人たちからの新しい要求についてはコメントしないとの回答を寄せた。
【引用終わり】
 まあ、人の意見は色々ですが、2015年に「ボストン美術館の着物イベントが人種差別だ」と騒がれて時、一人の日本人として私には意味がさっぱり解りませんでした?
 というか、肌の色に関係なくアメリカ人が「日本の着物は綺麗だな。着てみて写真を撮りたいな」と思って喜んでくれれば日本人としてうれしい限りでありますから、最初に聞いた時には「誇り高き白人が、劣等なる有色日本人の衣装を着るなどとは見苦しい」という「白人優位主義者が《文化盗用》という偽善的理由をねじ込んで抗議している」のだろうと思いました。
 抗議しているのは「Stand Against Yellow Face」なる団体だというので、ネットで調べました。
「stand against」とは
1 ~を背中にして立つ
2 ~に反対する立場を取る、~に立ち向かう、~に抵抗{ていこう[敵対・反対]する
という、2つの意味があるようです。
1の例文 stand against a wall「壁を背にして立つ」
に Stand Against Yellow Faceを当てはめると「黄色い顔を背にして立つ」になります。
2の例文 stand against a group「集団に立ち向かう」stand against the military and the police forces「軍隊と警察隊に抵抗する」に当てはめると、後に続く名詞に対して反対するですから「黄色い顔に反対する・敵対する」になります。
せっかくアメリカ人が、日本の着物をほめてくれているのに水をさすのですから「Stand Against Yellow Face」なる団体は、やっていることは「黄色い顔に反対する・敵対する団体=白人優位主義=人種差別の団体」のようですが、アメリカ国内のアジア系アメリカ人の代表として発言しているようなのです。
ただアジア系アメリカ人の代表を名乗っているだけで、日系人の代表ではないようです。すると、中国・韓国等の反日活動の一環でありましょうか?その目的は、アメリカ人が日本の着物を「いいな」と感じる事を止めさせる事が目的の、日米離間策でありましょうか?
正直申し上げて、ボストン美術館に寄せられた「抗議」の内容は、抗議の理由も論理的ではなくて、言葉を飾ってはいても、ただ感情的に「嫌だ」とごねているだけのようにしか読み取れません。
「日本の着物を、アメリカ人が綺麗だな。自分も着てみたいな」と思う事が、「なせ゛日本を侮辱する事=人種差別になるのか?」が私には、さっぱり解りません。
ですから、私は黒人サンタは黒人の人達が「サンタ文化はいいな。自分達もやってみたい」と感じる事ですから、「黒人の人達が白人に親しみをもっている」ことの表れてあると思います。
よって、黒人サンタを批判する事は、黒人の人達が批判する場合は「白人に親しみをもって、白人文化の真似をするな」であり、白人の人達が批判する場合は「お前たちは、我々とは違う。我々の真似をするな。文化を盗むな」ですから、黒人でも白人でも批判する人達は人種差別感情を持っているはずだと思います。
ここで、本日の結論ですが、「黒人サンタとボストン美術館批判を重ね合わせる」と、以下のようになります。
黒人サンタを黒人の人達が批判する場合は「白人に親しみをもって、白人文化の真似をするな」ですので、着物イベントを白人が批判する場合とほぼ同じ出す。曰く「白人は白人たるべきだ。下等な有色人種の真似をするな」。
黒人サンタを白人の人達が批判する場合は「お前たちは、我々とは違う。我々の真似をするな。文化を盗むな」ですので、着物イベントを黄色人種が批判する場合の「白人は、我々の文化を盗むな」と同じです。
このように「文化盗用だ」という言葉を使って、人種差別だと批判する人こそが、人種差別主義者だと、私は考えます。第一、多文化主義が詠われている現在に「文化盗用だ」などとチャンチャラ可笑しいではありませんか。
よそ様の文化の服装をするのが「文化盗用」ならば、背広・洋服を着ている日本人も中国人も韓国人も、みんな文化盗用者の極悪人という事になります。
最も、「下等な有色人種文化を白人が真似るのは見苦しいが、優秀な白人文化を下等な有色人種が真似るのは、自然の摂理だから仕方がない、目こぼししてやるしかない」というのが、「文化盗用だ」と騒ぐ白人諸氏の本音ならば、私たちが文化盗用犯扱いをされることはないでしょうが…。
いずれにしても、私は「人種差別だと騒ぐ人たちの心の底にこそ、真実の人種差別感情がある」ように感じるので、人種差別が解消されないのだと、この頃感じるようになりました。
即ち、どの人種・どの民族のなかにも(多かれ少なかれ一部には)差別感情を持つ人はいます。ですから一部の白人が、差別感情を持っているのは、当然なのです。着物騒動で解るように、一部のアジア人も差別感情を持っていますから…。
いわばお互い様なのに、その現実を無視して「一部の白人が差別感情を持っているから、白人全員が悪い」「一部の白人が差別感情を持っているから、自分と自分の仲間以外の白人が悪い」という、見当はずれの批判をしているから人種差別が解消されないのだと、本当に私は思います。
最後に、朝日新聞CLOBEに、「アメリカ人が着物を着たがるのが悪い」という事の意味が解らないというアメリカ在住の日本人の意見が載っていました。
私も、全く同感です。日本人で良かったと思います。
付記させて頂きます。
●キム・カーダシアン問題で考える「文化の盗用」と「文化の尊重」の境目 【2019・7/11グリーンバーグ美穂】



イラスト:tanomakiko
「私とフィアンセは、結婚式を挙げる予定です。着物を着たことはないですが、着物のレンタルと着付けをお願いできますか?また、お伝えしておきたいのですが、私たちはどちらとも日本とのルーツ的なコネクションはありません。ですが、私たちの結婚式で着物を着ることは、ウェディングドレスを着るよりも、とても意味があることなんです。でも、西洋人がこういった正式な晴れの場で着物を着ることが “inappropriate(不適切)” であるならば、ぜひはっきりとそうおしゃってください」
数カ月前、こんな依頼が私の所属している北カリフォルニア・ジャパンソサエティ に届きました。ジャパン・ソサエティ では、七五三、成人式の着付けと記念撮影のサービス、出張着付けの着物サービスを提供しています。日本に帰らなくても地元で子供の成長を祝う記念撮影できるようにと、サンフランシスコ・シリコンバレー在住の日本人、日系アメリカ人を対象としたサービスですが、実際はじめてみると、高校の文化祭のファッションショーで着てみたい、着物を習ってみたいなど、日系人以外からの問い合わせが結構あります。
ちなみに結婚式で着物のリクエストがきたのは、レズビアンカップルから。最初は、「西洋人が着物を結婚式で着てもいいのか」の質問の意味がピンときませんでした。私たちのミッションは、日本ファンを増やすこと、さまざまなプログラムやセミナーを通じて両国の相互理解を深めること。私たちとしては、アメリカ人が着物を着たいと言ってくれるのは願ったり叶ったりで、しかもLGBTカップルとなると、利用者のダイバーシティに幅がでて有難い!とわくわくでした。
とても美しい結婚式で、着物も似合っていたそうです。が、彼女たちの質問の意図が、culture appropriation (文化の盗用)の確認だったと認識するまでちょっと時間がかかりました。私たちの仕事がそういう問題と関係するだなんて、それまでほとんど考えたこともなかったのです。
アメリカのタレントのキム・カーダシアンが、自身の補正下着ブランドに”KIMONO”と名付けて批判を浴び、そして結局取り下げた一件で、このカップルのことを思い出しました。ジャパン・ソサエティにもculture appropriation (文化の盗用)の文脈でアメリカのメディアから取材依頼が次々ときました。
これは極端な例で、炎上して当然、多くの人が声を上げて当然、ネーミングを取り下げて当然(ああ、よかった)、むしろ、炎上承知で彼女の新ブランドの認知を高めるためにわざとやったのではないかという意見もあるくらいで、個人的には「文化の盗用」レヴェル以下の話と感じています。
ところで、文化の盗用と言われても、「なんのこっちゃ」という方も多いでしょうし、普段の生活の中で意識する機会が少ない方も多いかと思います。米国で文化の盗用とは、マジョリティ(多数派民族、アメリカでは主に白人)が、アフリカンアメリカン、ネイティブアメリカン、インド系、アジア系などの社会的に少数派であるマイノリティーの文化の要素を取り入れる行為です。
アメリカでは、セレブリティ、ファッション業界、企業だけでなく一般人だったとしても、ネイティブアメリカンの伝統的な頭にかぶる羽飾りや、中国のチャイナドレス、インドのサリーなどを着用したり、デフォルメしてファッションに取り入れたりすると、速攻炎上しソーシャルメディアで槍玉に上がる傾向があります。
英ロックバンド「コールドプレイ」の曲

「 Hymn For the Weekend」 にゲスト・ヴォーカルとして参加したビヨンセ。ボンベイで撮影された美しい色彩とインドの風景にビヨンセの映像が重なっていきます。ビヨンセがインド人の女性のようなドレスアップをしていることと、コールドプレイもビヨンセもインドとはルーツ的はまるで関係ないのにエキゾチックに利用していることに文化の盗用と一部非難されました。
自分のルーツ以外のモチーフを作品として取り込むことができないのであれば、アーティストとしての表現が限定的になる、という声はアメリカにもありますし、これは文化の盗用とは関係ない、という意見も幅広く見受けられました。
一方で、日本人はどうでしょう。セレブリティやモデル、そして日本を訪れる旅行者が浴衣や着物を着て写真に納まる姿をみて、うれしく感じる人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?「芸者」をデフォルメしたような品のないものの場合は別ですが、ちょっと間違った着方をしていても、デフォルメしてあっても、リスペクトが感じられ、そこにアート性があれば、好感を持ち、日本の文化を紹介してくれている、とポジティブに受け取る人が大半のように思います。
また、日本で撮影した映画やミュージックビデオに関しても、「あ、日本で撮ってる」と反応しても、「日本人でもないのに日本で撮影しやがって」と嫌悪感を持つヒトはほぼいないでしょう。


モデルのカーリー・クロスが日本人でもないのに芸者スタイルと炎上。Vogueがアジア人を起用しなかったことにも批判があがりました。個人的には白人起用でむしろ正解だったと思います。Vogue の読者は白人が多いですし、人は自分と共通項があるものに反応し共感を覚えます。カーリー・クロスの日本で撮影された写真で白人読者の中には日本に興味を持ったヒトもいたでしょうし、アジア人モデルだとそれが少なくなっていたかもしれません。結果、モデルのカーリー・クロスは、文化の盗用だったと謝罪。日本人からは謝罪は不要の声も。
ボストンの美術館が着物体験のイベントを企画したところ人種差別という批判が殺到し中止になった時も、当事者の日本人は「これがなぜいけないのか」という反応で、何が人種差別なのか意味不明だった日本人が多かったと聞きます。
アメリカには民族や人種に関する長く複雑な歴史があるので、こうした問題に敏感なのは分かるのですが、アメリカの極端なポリティカル・コレクトネス(偏見や差別のない中立的な表現を使うこと)には正直疑問に感じたり、うんざりすることはあります。
もちろん、差別だと感じられるようなものは避けるべきです。例えば、顔の黒塗り。シャネルズ(のちにラッツ&スター)は以前、顔を黒塗りにしてパフォーマンスしていましたが、それがどれほどアフリカンアメリカンにリスペクトを込めたものであったとしても、彼らの音楽に触発されていたとしても、黒塗りはタブーです。黒人差別の歴史と直結しているのでドン引きされます。
ネイティブアメリカンは、羽飾りのヘッドドレスを彼ら以外がファッションに取り入れるのに強い抵抗がある印象があります。着物も伝統がありますが、羽飾りには伝統だけでなく神聖な要素が強いからです。


インド系の友人に聞いてみると、「文化をリスペクトしてくれた人がサリーを着るのはオッケー。だけど、ハロウィーンで着られるのは嫌」「ビンディ(ヒンドゥー教徒の女性が額につける丸い印)の結婚している、未亡人でない、という意味がわかっていたらオッケー。つけている人、一人ひとりに聞いて回るわけにもいかないけどね」と言っていました。「企業の利益のために私の文化を利用されるのは嫌だけど、一般人が着る分には構わない」という人も。Culture Appropriation (文化の盗用)とCultural Appreciation(文化の尊重)の境目は、人によって受け止め方が違うので、周囲の声もさまざまです。
私のように、アメリカ人に日本文化に触れてもらい、日本ファンを増やそうという仕事をしている立場からすると、何より問題なのは、他の文化に対する無関心だという気がします。興味がない、というのは一番愛がないということ。興味をもってくれる人に自分の文化をシェアする、興味を持った文化を尊重し体験してみるということは、お互いを理解する最初の一歩なのではないでしょうか。

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