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恥ずかしながら、書籍をだしました。「十七条の憲法から読み解く日本文明(上)━これを読めば日本人が解る━」です。幻冬舎ルネッサンス新書です。


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この書は、子供のころから、周囲の日本人の思考方法が理解できなかった私が、40代半ばで「そうか日本って、17条理憲法理論の国だったのだ」と理解した、私の日本人論です。
私が《日本》を理解できなかったのは、元々鈍感だった他に、学校で教えられる日本社会の基本理念が「欧米式の一元論だった」からです。なのに、実際の日本社会の決定 (行動) は日本古来の「多元相対論」で動いてゆく。
つまり、「教えられたと事やマスコミが言ってる事と、実際が違う」だから私は、混乱していたのであります。
日本は、欧米と同じように選挙制度による民主政治を採用していますので、日本人と欧米人の思考方法も同じかと思えば全然違います。だから、どうも「変だ」という事になるわけです。それではここで、日本人と欧米人の思考方法の違いを簡単に解説します。
1 日本人の物事の見方と、思考方法。
日本は、多神教国なので神様が沢山いて、多くの日本人はその沢山の神様を信じています。太陽神・天照大神様も、お釈迦様も、学問の神様・天神様も、武門の神様・八幡様も、健康長寿のお薬師様も、みんな信じています。
つまり、日本人は別々の神様が「みんな善なる神様だ」と信じているので、自然に「選択すべきが沢山ある=多元論」の思考になります。来年の初もうでには、天照大神様・お釈迦様・天神様・八幡様・薬師様・大黒様・その他の神様の、「どの神様にお祈りに行こうかな?」と自分で選択するのです。
このように、沢山の神様の中から「自分が祈る神様を選ぶ権利を持っている」日本人の大多数は、神様に敬意を払っても隷属しません、普通の人は、「神様に服従しろ」と命令されたら、他の神様の所に行ってしまうからです。
そして日本人の大多数は、他人が自分違う神様を信じていても、別段何とも思いません。いいも悪いもない。何にも感じないのです。
これは、沢山の神様がいる中で、「〇様がいい。ほかの神様は悪い」「いや違う。△様がいいのだ。〇様は信じてはいけない」と、人々が争っていたら、永遠に争っていなければならなくなるので、多神教の信仰が平和の中で成り立っているという事は、即ち、大多数の日本人が「他人が自分違う神様を信じていても、別段何とも思わない」という事なのであります。
故に、多神教国家の大多数の日本人は、以下のようになります。
1 沢山の神様の善を信じている。→ 善なる事・正しい事は沢山ある。→ 多元論の思考になる。
2 善・正の選択肢が沢山ある。→ 今の自分にとっての善・正を自分で選択する。→ 選択するのが自分なので善・正に服従しない。
3 誰もが自分で善・正を選択しているので、他人の選択を批判すると喧嘩になって平和に暮らせない。→ 他人の善・正を批判しない。= 絶対善が存在しない、相対論の社会になる。
★ 故に、多神教国家の大多数の日本人は、「多元的に世界を視て、相対的物事を考えて、何物にも服従しない」、自己責任論者になるのです。
2 欧米人の物事の見方と、思考方法。
欧米では、信じる神様が一人で、しかもこの神様は「他の神様を信じてはいけない」→「自分は、唯一絶対神だ」と主張し、「自分の教えを守りなさい」=「神に服従しなさい」と命じています。
★ 故に、欧米社会は、「善は一つの一元論の社会となり、その善には全員が服従しなくてはならない」という、「絶対善に服従する事が正しい」という社会になります。
だから、現在の「絶対善=リベラル派の主張する善」にそぐわない発言をするリアリストの人達は、リベラル派から「悪い」とレッテルを貼られて、排除される事になるわけです。
このように、日本と欧米では、物事の視方と思考方法が違っています。
日本は多元相対論の社会なので、共生を図る為に「これをしてはいけない」という、ネガティブリストの国です。
一方で、欧米は一元論の社会なので、共生を図る為に「全員で同じ善を信じて、善しかしてはいけない」という、ボディティブリストの国です。
日本は「悪い事をしなければ、後は自由」、欧米は「善しかしてはいけない。後はすべ悪」という社会です。
例えば、お葬式の花を選ぶのに架空の決まりを作って考えます。
日本社会では「とげのあるバラを使ってはいけない」というネガティブリストで決まりをつくります。ですから、バラさえ使わなければ、菊でも桜でもひまわりでも何でも使ってよい。そして、他人がひまわりを使うのが気に入らなくても批判しないという社会です。
一方で、欧米社会では「菊を使うのが善だ」というボディティブリストで決まりを作ります。ですから、菊しか使ってはいけない事になり、もし他の花を使ったら、周囲の全員から「お前は悪い奴だ」と批判されて排除されるという社会です。
このような、私の主張は「欧米は自由で、日本は自由でない」という、欧米マスコミ論に真っ向から逆らうモノであります。
しかし現実社会では、日本人の方が自由にものを考えています。
例えば、米国のトランプ前大統領に対して、リベラルマスコミ以外の多くの日本人は、トランプ氏の実際の政策・行動から、米国の大統領としての評価をしました。トランプ氏を多元的に視て、相対的物事を考えて、自分で評価したのです。ですから、日本人にはトランプ支持者もかなりいました。
一方で、ヨーロッパの人達は、マスコミが伝える「トランプ氏は悪い」という風評で、トランプ氏を判断した人が多い為に、トランプ氏ヨーロッパでは悪人扱いでした。
このように考えてゆくと、ある一つの結論が浮かび上がります。
即ち、現在のアメリカのトランプ派とリベラル派の対立は、「物事の見方と、思考方法との対立である」という事です。
「リベラル派の決めた《善》に服従しないと抹殺される『一元論』の社会に対して、自由を求めて戦いを挑んでいるのがトランプ派である」のが、現実の姿です。
ヴォルテールの次の言葉が、自由をあらわす名言とされています。
「私はあなたが言う事には賛成しないが、私はあなたがそれを言う権利を死んでも護るだろう。 無実の男を有罪にするより、罪ある男を救う危険を犯すほうがよい」
これが自由だとすれば、「トランプ氏に悪人のレッテルを貼って排除しようとする人たちが沢山いる、今の欧米社会は、未だ自由な社会への道半ばなのだ」と、言えます。
一方で、「賛成はしないが、喧嘩をしたくないから、勝手に言っててくれ」とう日本社会は、元々自由だったのであります。なのに、欧米から『善の押し付け』を受けて、自由が束縛されつつあるわけです。
話がそれてきてしまいました。どうも、すいません。
ただ、私が言いたいのは「人に迷惑をかけない」という事が鉄則の日本は、「人に迷惑さえかけなければ、社会的に善悪を押し付けられる事のない、何をしても自由な社会である」という事です。
人の心が自由なままで他人と争わずに共生するには、各個人が「他人と争うのは止めよう」と、自制することで達成されます。この為に日本では、各個人の心の中で「自分と他人の意見が争い」が発生します。個人個人が自制する。だから、日本はストレス社会なのです。
けれど、この自制は、本来は束縛ではありません。
自分が他人と意見を戦わせることを選択しさえすれば、自制する必要はないからです。
故に、私は「日本は、元々自由な社会である」という事を、日本人が自覚して、毎日発生する「自分と他人の意見が争い」に対して、「喧嘩するのは面倒なので、ここは無視しよう」とか「ここでひいたら、やばいから、反論しよう」とかを、自分で意識して選択すれば、自制を束縛と勘違いしてストレスを貯めなくても済むと考えて、本書を著しました。
日本社会では「周囲に合わせなくてはならない」のではないのです。あくまでも、「意見の相違で喧嘩にならないようにすればよい」のです。日本は多元相対論の国でありますから…。
★但し「自分の信じる正義を、世に知らせたい」と志してマスコミに入った人や、「自分の信じる正義の世にしたい」と志して政治家になった人達の中には、欧米の多くの人達と同じ「自分の信じる善だけが正しくて、後は悪だ」という思考の「一元論者」の人達が沢山います。多元相対論なので、一元論も排除しないからです。

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