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日米安保を厳密に解釈すると、アメリカは日本の《用心棒か宗主国》です。でも日米両国は、日米安保に日米同盟というニックネームをつけて、同盟国の振りをしています。これはなぜか?一種の詐欺ですが、これが一番現実的だからです。 ●日本はアフガニスタン以下…沖縄県庁の若手が暴いた日米関係の異常

翁長さんの時代からデニーさんの今まで、僕は、沖縄県庁の若い官僚たちが、日米地位協定の異常を、アメリカが他国と結んでいる地位協定の比較から炙り出す試みに、ずっと協力させていただいております。
単に反米という立場ではなく、他国との比較を敢行することによって日米関係がいかに異常であるかを、その最たる被害者の沖縄が問う。
駐留米軍の「居てやっている感」が変化
 その中の報告書の一つに、日米地位協定研究の第一人者であられる法政大学法学部の明田川融先生と一緒に、僕の論評が載っています。ここで改めて、沖縄県庁の斬新な取り組みに対する論評を転掲したいと思います。  
* * *  日米地位協定に「見直し」は必要であろうか?   「変化」が必要ないと言っているのではない。問題を合意条項の具体的な瑕疵に限定できるなら、「見直し」は必要であるだろう。  
日米間に「主」と「従」の関係があり、「従」が「主」に対して、待遇の改善を求める。これが今まで日本人が求めてきた「見直し」である。しかし、本調査による他国の地位協定の「比較」が突きつける現実の要請は、待遇の「見直し」ではない。主従関係そのものの「見直し」である。  
冷戦の終焉を契機として、駐留米軍の「居てやっている感」は、決定的な変化を迫られる。  
第二次大戦終戦間際、ソ連の圧倒的な通常戦力を見せつけられて以来、赤い悪魔の恐怖という政治レトリックは、何とか駐留米軍の自由の謳歌を正当化できていた。  
冷戦終結は、米軍駐留の根本の「言い訳」が問われる時代の黎明であった。1993年のドイツの補足協定、1995年のイタリアでの同様の合意は、これを背景とする。  
駐留米軍の「自由の制限」は、すなわち受入国の「主権の回復」である。
【引用中断】
現代ビニネスにこの意見を寄せられた、東京外国語大学教授伊勢崎 賢治氏を始めとして、「殆どの日本人は、そもそもの日米関係について勘違いをしている」と、私は考えます。
日米を同盟国だと思い込んでしまっているのです。しかし、「憲法第9条」によって正式な軍隊が無い上に、戦争自体を認めていない日本には、いかなる国とも軍事同盟は結べないのです。
だから、日本とアメリカは軍事同盟を結んでいません。
よって、日米は条約によって担保された、正式な同盟国ではありません。
現在国際社会で、日米が同盟国であるかのように認知されて、日米両国も同盟国のように振舞っているのは、1980年代に「日米安保条約に日米同盟というニックネームをつけて、これからは軍事同盟国の振りをしよう」という共同声明をだしたからです。
最も、共同声明は、条約に次ぐものとしての《権威》を認められています。
又、(日米以外の)国際社会にとっては、日米が正式な同盟国であろうと、同盟国の振りをしているだけであっても同じです。
更に、国際社会だけでなく日米両国の内部からも「軍事同盟を結ばずに同盟国の振りをするのは、いけない事だ」という、異論は出ませんでした。
つまり地球上の誰も「変だ」とも「いけない」とも言わなかった為に「同盟国ではない日米が、同盟国の振りをする」状態が長年にわたって続いているのです。
しかし日米関係の基本が、軍事同盟ではなくて、『軍事基地においては日本の占領を続ける』という主旨の、日米安保条約であることは変わっていませんので、引用文の中で伊勢崎教授が指摘されているように、現在も日米間は主と従の関係なのです。
言葉を変えれば、今も日米は、非占領地と占領軍・保護国と宗主国の関係なのです。改定の前の日米安保条約は「米軍は、日本国内の米軍基地を好き勝手に使う」というだけの、本当の地域の占領継続=基地提供条約でした。安全保障という名前はついてしましたが、純然たる不動産条約でした。
だから、韓国に竹島が奪われて日本人40数人が殺されても、数千人の日本人漁業者が海上で韓国に拉致されても、米軍は何もしませんでした。不動産条約で土地を借りて使っているだけだったので、家主が殺されても何もしないのは当然です。
ただこの状況が続くと、日本側から「出ていけ」という声が上がることも有りますので、1960年に日米安保条約が「日本にいる米軍は、日本が攻撃された時には戦う」と改定されました。ですからこの時から、日米安保は日本にとっては「用心棒契約」になっているのかもしれません。
この状態を例えれば、江戸時代に商人が自宅兼店舗に用心棒の旦那に《居て貰っていた》のと同じです。商人たちは用心棒の旦那に衣食住を提供してお小遣いをあげて、ペコペコ頭を下げていました。
用心棒の旦那が居てくれるから、その商店にはやくざに因縁をつけられる事もないし、強盗に狙われる事もありません。商人は最悪命知らずの強盗にはいられても、旦那に守ってもらえると信じて、毎日枕を高くして寝ていたのです。
私は《駐留米軍の「居てやっている感」》は、日本側の《居て貰っている感》と、セットになっていると思います。
日本人の倫理道徳には、大きく分けて3つあります。
公家道・武士道・庶民道です。
この中で、「敵に責められた時には、自国を守る為に戦う事をよし」とするのは、武士道だけです。
公家道では、「敵に攻められるべきではない。だがいざと言う時には武士が我々を守るべきだ」と、考えます。
庶民道では「敵が攻めてきたら大変だ。だから普段から武士にはペコペコしとこう。いざと言う時は武士に守ってもらおう」と、考えます。
この庶民道を現状に当てはめますと「中国が攻めてきたら大変だ、だから普段から米軍にはペコペコしとこう。いざとなったら米軍と自衛隊に守ってもらおう」になります。
そしてこの庶民道の人達が一番多いので、江戸時代の商人が《用心棒の旦那に、居てもらっている》と感じていたように、現代の日本人も《米軍に、居てもらっている》と感じている人が多いのです。
ただ、その本音を声には出しません。
なぜならば、公家道気質の知識人とマスコミの人達が「中国に攻められるべきではない。だが、いざという時には米軍と自衛隊が我々を守るべきだ」という、非現実的な理論を大声で騒いでいて、反対意見を述べる人達を迫害するので、攻撃されたくなくて黙っているのです。
また武士道気質の自衛隊も、第二次大戦の敗戦から75年もの長きにわたり、「負けたからには潔く、いかなる言い訳もいない」という武士道の美学に酔っ払っていて、未だに(ほぼ)沈黙しています。
このように、国防意識の違う公家道・武士道・庶民道の日本人が混在する現在の日本では、大声で発言する公家道気質の知識人とマスコミの人達の意見とは違う国防体制がとられることになります。
なぜかと言えば、実際に国防を担うのは武士道気質の沈黙の自衛隊であり、その自衛隊を支えるのは(やはり)沈黙の大多数の庶民だからです。
だから公家道気質の知識人とマスコミの人達がいくら大声で「手を汚さないのが、善なる高貴な生き方だ。だから我々は手を汚さない。よって、中国に攻められるべきではない。だから、米軍も自衛隊も本来は無用の長物であるべきだ」と声を張り上げても、言ってるだけで何もしないので、現実は沈黙の庶民道の人達の意向で動くのです。
つまり庶民道では「米軍にはペコペコしてご機嫌を取り結び、いざ中国が攻めてきたらなったら米軍と自衛隊に守ってもらおう」として、米軍に駐留費を払ったり、米軍基地を整備したりする行動をするので、現実はそのように動くのです。
お公家さんが発言して、それを無視して武士や庶民が行動するという日本は、外から見ると「言ってる事とやっていることが違う」信用の置けない国に見えると思います。
ですから私は、戦後75年もたつですから、そろそろ武士道の人たちも庶民道の人たちも口を開くべきだと考えます。
即ち、公家道気質の知識人とマスコミの人達に対して、「あなた方が自分の手を汚したくないのは、勝手です。しかし、尖閣諸島に中国船が現実に押し寄せてきている今、私たちはすでに中国に侵略されていると判断する。あなた方の現実認識は間違っている。だから、米軍も自衛隊も必要なのだ」とはっきり言った方がよいと思います。
言ってるだけの人達ですから、害がなければ、勝手に言っていてもらえばよいのですが、国際社会に「言ってる事とやっていることが違う」信用の置けない国にみられることだけでも、被害が生じています。
また、中国人から日本は「憲法9条」があるから、戦わずに降伏するなどと勘違いされたら大変です。
公家道気質の知識人とマスコミの人達が、あれこれと言う、「日米安保条約」も「日米地位協定」も「主権の問題」も、結局は「紙の上に何と書いてあるか」の机上の問題にすぎません。ようは日米は対等と思えば、日本人は気分がよくて、日本が子分と思えばアメリカ人は気分が良いという、気の持ちようの問題にすぎません。
ハッキリ言ってしまえば、枝葉末節どうでもいい問題です。なにしろ、日米は紙の上では軍事同盟も結んでいないのに、実質の軍事同盟国になるのが現実です。
尖閣諸島に中国船が押し寄せてきているのが、現実です。
しかしどういう訳か、公家道気質の知識人とマスコミの人達は、在日米軍に「主権」を侵されているような《気がする》事を大問題として話し合いたいと騒ぐのです。そもそも「主権」という言葉自体が単なる《概念》でしかないのにです。《概念》でしかないので、《気がする》だけなのです。
島を一個取られたから、そこに住んでいた人達の住む場所がなくなったとかの、現実問題ではありません。
本来の国会は「現実にどう対処するか」を話し合う場所だと思います。「紙になんと書いてあるから、良いとか悪い」とかの議論をする場所ではないのです。簡単に言えば、「善悪ではなく、どうやって皆で食べていくか、生活してゆくか」を話し合う場所です。
さて、私がこの伊勢崎教授の主張をブログに取り上げさせて頂きましたのは、その最後に「沖縄県側の要請で、削除した文章」を載せておられるからです。
その部分を以下引用します。
【再引用始め】
沖縄が「日本のカタチ」を問うために
 実は、この論評の最初の草稿で、沖縄県側の要請で、削除した文章があります。  
殊、米軍基地問題においては、沖縄がもつ本土とは異なる与野党の政治構造の中で、この他国地位協定の調査結果がなんとかコンセンサスを得られるように、という、たってのお願いでした。  
僕も学者の端くれですから、政治からの中立性の葛藤がありました。それなりに悩みましたが、デニーさんにその原文を読んでいただくという条件で、その削除を承諾しました。  その後、この沖縄県庁の試みは、デニーさんによる本土の他県の県知事への様々な働きかけ(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/572238)と相まって、単に米軍基地という迷惑施設を押し付けられた沖縄の訴えという従来のやり方とは一味違ったものを提供したと思います。  
しかし、日本のカタチを問う、決定的なものにはまだ程遠い…。  
やはり、もう一つの残された問題を、あえて沖縄が問わなければ、何も進まないのではないか。そんな思いから、削除に承諾した文章を公開する決意をしました。沖縄県庁の若い官僚たちへは、裏切りと映るかも知れませんが。  
承諾した削除文は以下です。上記転掲の僕の論評の結びとして書いたものです。これが、日本のカタチを決定的に変える起爆剤になることを祈って。  
* * *  最後に、沖縄によってなされる「比較」は、「ジブチ」に向き合うべきだ。日本が地位協定の“加害者”として自衛隊を駐留している現実に、だ。それも、日米地位協定のアメリカよりもずっと有利な裁判権上の特権を持って。  
周知の通り、日本は、現代の交戦法規である国際人道法が厳格に定義する「戦争犯罪」を起訴する法体系を持たない。「九条が戦争放棄を宣言しているから自らが犯す戦争犯罪を想定しない」という奇想天外が法理となっているからだ。
軍事という個人の意思が極限に制限される国家の命令行動が犯す事件の発生時に、首相を頂点とする国家の指揮命令系統を起訴する法体系を日本は持たないのだ。  
さらに、事件の責任を個人過失として個々の自衛隊員に負わせるにしても、日本の刑法は「国外犯規定」によって自衛隊に限らず日本人の海外での業務上過失は管轄外となっている。  
つまり、日本は、自衛隊の軍事過失と個人過失の両方を「想定外」にしたまま、それを「想定」して現地法からの訴追免除の特権を得る地位協定をジブチ政府と結び、駐留を続けているのだ。  
これは「詐欺」である。  
沖縄による「比較」は、ジブチの現地調査を敢行するべきだ。日本の外務省と在外公館は、最大限の妨害をするだろうが、必ず、遂行するべきだ。  
さもないと、沖縄が「日本の姿」を問う試みは完成しない。
伊勢崎 賢治(東京外国語大学教授)
【引用終わり】
 この部分に関して言えば、日本が「ジブチ」で海賊退治を手伝う際に、本来は軍人ではない自衛隊員が軍人としての職務を果たすことによって罪を問われなくするために、「日本が地位協定の“加害者”として自衛隊を駐留」させざるを得ない現実が記されています。
 そして沖縄県は、「この現実は見なかったことにした方が、自分達の主張を通しやすい」と思ったので、伊勢崎教授に削除を依頼した訳です。
 即ち伊勢崎教授(学者さん)の方が、「紙の上の文字と現実があっていないから、文字を変えた方がよい」と意見したのに、沖縄県の方は「現実なんかどうでもよい。自分達の望む文字を紙に記したいのだ」と言ったわけです。
 このように自分達の気に入らない文章は見なかった振りをして削除を依頼する沖縄県庁だから、尖閣諸島に中国船が押し寄せても見なかった振りを通しているのでありましょう。
 ただ、コロナ感染の問題は、「自分達は被害者だ。みんな日本政府と米軍が悪いんだ」と いっていれば問題が解決しなくても時が流れるという、いつものパターン通りには進まないようです。
コロナ感染者(=問題)について、見なかった振りをしたくても現実感染者は沖縄にいるので、見なかった振りはできません。だから現在の沖縄県は右往左往しているのだと思います。いつもの通りに、「日本政府が悪い」「米軍が悪い」と言ってはいるようですが、言っているだけで自動的にコロナ感染者問題が解決するわけではありませんから…。
これと同じで「日米安保条約」で、日本に米軍が駐留しているのは現実です。なぜ戦後75年たっても、米軍が日本にいるのか?それは日本にはアメリカとい《用心棒か宗主国》が必要だからです。だから「憲法9条」によって、軍隊が無い日本が 「日米安保条約」に「日米同盟」というニックネームをつけるという、紙の上での「詐欺」をやって、同盟国の振りをしているのです。
繰り返しになりますが、私は、戦後75年もたつですから、そろそろ武士道の人たちも庶民道の人たちも口を開くべきだと考えます。「善悪論争に巻き込まれるのではなくて、現実にどう対処していくのか」という議論を声高に始めるべきだと思います。
そして現実を見据えて、選挙で投票すべきだと思います。
尚、欧米諸国では言ってる人が行動します。日本のように言ってる人と行動する人が別ではないので、外から見ると「言ってる事とやってることは同じ」に見えます。
(追伸)として「日本はアフガニスタン以下…沖縄県庁の若手が暴いた日米関係の異常」の全文を付記します。
(七重コメント…私は「日本がアフガニスタン以下」なのは、日米安保条約が結ばれたのは1951年で、その頃にはまだ「非占領国の主権を尊重しよう」という意識が無くて、21世紀のアフガニスタン戦争の時には「敗戦国の主権も尊重する」ようになってきていたからだと思います。つまり、半世紀で国際社会はずいぶん紳士的に変わってきているのです)
沖縄県庁の斬新な取り組み
翁長さんの時代からデニーさんの今まで、僕は、沖縄県庁の若い官僚たちが、日米地位協定の異常を、アメリカが他国と結んでいる地位協定の比較から炙り出す試みに、ずっと協力させていただいております。その成果は、ここで一覧できます。 ---------- 地位協定ポータルサイト https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/sofa/ ----------  
彼らによる海外への実地調査は、実に、米軍を擁する7ヵ国にも及び、当然、こいつらは反米だとか、反日本政府だとか、予め風評を現地の外交筋に流すなど、手を替え品を替え、日本の外務省とその在外公館による様々な妨害があったと予想されるのですが、司令官クラスを含む各国の要人たちとのインタビューにも成功しております。  
単に反米という立場ではなく、他国との比較を敢行することによって日米関係がいかに異常であるかを、その最たる被害者の沖縄が問う。ぜひ、上記リンクをご覧になってください。
駐留米軍の「居てやっている感」が変化
 その中の報告書の一つに、日米地位協定研究の第一人者であられる法政大学法学部の明田川融先生と一緒に、僕の論評が載っています。(【他国地位協定調査報告書(欧州編)】の39ページです。https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/sofa/documents/190411-1.pdf)  ここで改めて、沖縄県庁の斬新な取り組みに対する論評を転掲したいと思います。  * * *  日米地位協定に「見直し」は必要であろうか?   「変化」が必要ないと言っているのではない。問題を合意条項の具体的な瑕疵に限定できるなら、「見直し」は必要であるだろう。  
日米間に「主」と「従」の関係があり、「従」が「主」に対して、待遇の改善を求める。これが今まで日本人が求めてきた「見直し」である。しかし、本調査による他国の地位協定の「比較」が突きつける現実の要請は、待遇の「見直し」ではない。主従関係そのものの「見直し」である。  冷戦の終焉を契機として、駐留米軍の「居てやっている感」は、決定的な変化を迫られる。  
第二次大戦終戦間際、ソ連の圧倒的な通常戦力を見せつけられて以来、赤い悪魔の恐怖という政治レトリックは、事故が引き起こす紆余曲折があっても、何とか駐留米軍の自由の謳歌を正当化できていた。  冷戦終結は、米軍駐留の根本の「言い訳」が問われる時代の黎明であった。1993年のドイツの補足協定、1995年のイタリアでの同様の合意は、これを背景とする。  駐留米軍の「自由の制限」は、すなわち受入国の「主権の回復」である。
「横田空域」などあり得ない
 地位協定を巡る国際情勢の大変換期にあって、地位協定の「安定」に苦慮するアメリカ政府が行き着いた政策は、「互恵性」の導入であった(国務省 国際安全保障諮問委員会 地位協定に関する報告書、p23、2015年 https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/sofa/documents/isab03.pdf) 。  
互恵性。すなわち派兵国と受入国の主権が対等になる。外交特権のように「逆」がありうるのだ。「たとえ米軍の駐留が一方的なものであっても互恵性の導入は受入国の“国家のプライド”と“主権”にかかわる問題をかわすのに有効」とまで同報告書はうたう。  
互恵性は事故の防止を保証するものではない。だが、事故発生時に、少なくとも「不平等条約」であるという誹りをかわせる。  
互恵性は、地位協定の「文化」として、既に深く根付いている。NATO地位協定では1949年の草稿段階から。冷戦後は、旧ソ連邦の国々、つまり昔の敵国にも適応している。  
互恵性とは、つまり「アメリカが本土で、他国の軍に許さないことを駐留米軍は受入国でやらない」ことであるから、「アメリカではFAA(アメリカ連邦航空局)のルールに外国軍機も従わなければならない」のになぜ? と、本調査でインタビューに応じた要人たちが「横田空域」に驚くのは当然過ぎるくらい当然のことなのだ。  
この「文化」は、アメリカの現在の戦場となっている新しい受入国との地位協定にも既に常態化している。駐留米軍への依存度が日本より格段に高いはずのアフガニスタンにおいても、だ。  
2012年に合意した両国の協定では、序文から「アフガニスタンの主権」が基調になっており、協定の文面を支配する「文化」の格差に目眩がする。  
アフガニスタンに裁判権での互恵性はまだないが、同協定では、米軍人・軍属を裁く米本国での裁判にアフガン政府関係者が立ち会える権利を保障している(アフガニスタン・アメリカ治安・防衛相互協力協定 第13条2項 http://staging.afghanembassy.us/contents/2016/04/documents/Bilateral-Security-Agreement.pdf)。  
こんな措置は、日米間では、俎上にも上がらない。
日本には主権がない
 互恵性を基調とする「文化」は、米軍が使用する基地と空域は受入国の「主権」が支配し、当然、駐留米軍の「自由出撃」を許さない。  
本来これは、現代の開戦法規である国連憲章51条が固有の権利として国連加盟国に保障する個別的自衛権の観点から、当然の帰着である。「自由出撃」で誘発される敵国の報復の第一の標的は直近の受入国になるからだ。  
それは集団的自衛権を分かち合う間柄にとっても同じで、自衛権すなわち国防における主権は不可侵のものであり、「自由出撃」は独立した主権国家間の国際関係に存在し得ない概念である。これを許す日米間に、日本の主権は存在しない。  
同時に、その敵国に対して、日本の戦力、例えば自衛隊が何もしなくても、戦時国際法の中立法規の要求(基地を造らせない。通過をさせない。金を出さない等)を何も満たさない日本は、敵国にとって合法的な攻撃目標となる。「自由出撃」を許す日本は、アメリカのための「自動交戦国」である。  日本人は、今一度、鏡に映った自身の姿を見つめるべきだ。  親米保守は、アメリカの行動のリスクを内包できない、同盟国にはあるまじき国防の「無主権」を。  
「自動交戦国」の根源
 なぜ、現代の国際関係では当たり前のこの「文化」が、日本に到達していないのか?   
朝鮮半島を基点とするこの圏域では、いまだ「冷戦」が継続しているからだ。  
朝鮮国連軍。38度線で北朝鮮/中国に対峙しているのはアメリカ/韓国軍ではない。“国連”である。  
拒否権を持つ中国を安保理に擁する現在の「国連」ではありえない終戦直後の国連軍である。本土から1万キロも離れたこの地域に国外最大の軍事拠点を置くアメリカに、「国際益」を装う機会を与え続ける冷戦の遺物である。  
戦後、日本が正式に国連加盟国になる前の1954年、日本は、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアなど9ヵ国と「日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定」を結んでいる。この朝鮮国連軍地位協定は、日米地位協定と連動し、横田を含む7つの在日米軍基地が、この国連軍の使用に指定されている。  
つまり、「米朝開戦」は「“国連”朝開戦」であり、その開戦の意思決定に日本は含まれず、開戦と同時に日本は北朝鮮にとって自動的に合法的な攻撃目標となる。  
「自動交戦国」の根源はここだ。  
日本は、「冷戦」の終結をじっと待つのか。それとも、国際法で保障されている国防の主権を盾に、現代の「国連」が匙を投げている“国連軍”の解体を主体的に推し進めるのか。  本調査が次の訪問先にあげている韓国で、協働できる可能性を探って欲しい。
沖縄が「日本のカタチ」を問うために
 実は、この論評の最初の草稿で、沖縄県側の要請で、削除した文章があります。  
殊、米軍基地問題においては、沖縄がもつ本土とは異なる与野党の政治構造の中で、この他国地位協定の調査結果がなんとかコンセンサスを得られるように、という、たってのお願いでした。  
僕も学者の端くれですから、政治からの中立性の葛藤がありました。それなりに悩みましたが、デニーさんにその原文を読んでいただくという条件で、その削除を承諾しました。  その後、この沖縄県庁の試みは、デニーさんによる本土の他県の県知事への様々な働きかけ(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/572238)と相まって、単に米軍基地という迷惑施設を押し付けられた沖縄の訴えという従来のやり方とは一味違ったものを提供したと思います。  
しかし、日本のカタチを問う、決定的なものにはまだ程遠い…。  
やはり、もう一つの残された問題を、あえて沖縄が問わなければ、何も進まないのではないか。そんな思いから、削除に承諾した文章を公開する決意をしました。沖縄県庁の若い官僚たちへは、裏切りと映るかも知れませんが。  
承諾した削除文は以下です。上記転掲の僕の論評の結びとして書いたものです。これが、日本のカタチを決定的に変える起爆剤になることを祈って。  
* * *  最後に、沖縄によってなされる「比較」は、「ジブチ」に向き合うべきだ。日本が地位協定の“加害者”として自衛隊を駐留している現実に、だ。それも、日米地位協定のアメリカよりもずっと有利な裁判権上の特権を持って。  
周知の通り、日本は、現代の交戦法規である国際人道法が厳格に定義する「戦争犯罪」を起訴する法体系を持たない。「九条が戦争放棄を宣言しているから自らが犯す戦争犯罪を想定しない」という奇想天外が法理となっているからだ。
軍事という個人の意思が極限に制限される国家の命令行動が犯す事件の発生時に、首相を頂点とする国家の指揮命令系統を起訴する法体系を日本は持たないのだ。  
さらに、事件の責任を個人過失として個々の自衛隊員に負わせるにしても、日本の刑法は「国外犯規定」によって自衛隊に限らず日本人の海外での業務上過失は管轄外となっている。  
つまり、日本は、自衛隊の軍事過失と個人過失の両方を「想定外」にしたまま、それを「想定」して現地法からの訴追免除の特権を得る地位協定をジブチ政府と結び、駐留を続けているのだ。  
これは「詐欺」である。  
沖縄による「比較」は、ジブチの現地調査を敢行するべきだ。日本の外務省と在外公館は、最大限の妨害をするだろうが、必ず、遂行するべきだ。  
さもないと、沖縄が「日本の姿」を問う試みは完成しない。
伊勢崎 賢治(東京外国語大学教授)

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