なぜ阿良々木暦は羽川と付き合わなかったのか
物語シリーズ最大の謎と言ってもいいだろう問いについて。
阿良々木暦は、春休みに羽川から助けてもらい、その後羽川への恋心を自覚する。
だが、彼は結局その恋心をなかったことにする。決定的になるのが以下の忍野との問答だ。
ここからわかるのは、阿良々木は羽川への恋心をなかったことにするのが、①一番幸せだと感じたということ。②羽川から直接助けを求められていないことを気にしているということだ。この「幸せ」と「助ける/助かる」という問題は物語シリーズを通じて幾度となく語られるテーマだ。
1,物語シリーズにおける「幸せ」
阿良々木暦が作品の中で「幸せ」のテーゼに最初にぶつかるのが、傷物語におけるキスショット・アセロラ・オリオンハートとの戦いにおいてである。暦は傷物語の中で瀕死のキスショットに血を分けたことで吸血鬼になってしまう。その後、キスショットが暦を吸血鬼から人間に戻すために、キスショット自身を食わせ殺させようとする。彼女自身も最初の眷属の自死を目にして他者のために死ねなかった後悔と力の強さゆえの孤独を抱えていたのだ。自分自身が人間に戻ることとキスショットが生きること、双方を叶える方法を問うために専門家忍野メメと以下のような問答をする。
そして暦は半分人間、半分吸血鬼という姿になり、キスショットは力をそがれ阿良々木に繋がれた状態で生きることになる。ここで彼が「幸せ」について得たのはおそらく、外から誰かを幸せにすることはできず、不幸を分け合うことしかできないということだ。これについては、猫物語白を経て、自分の過去とケリを付けた羽川も述べている。
すなわち、本人の幸せになろうとする意思があって初めて人が介入し幸せにすることができるというわけである。だからその意思のないキスショットに対しての暦の行動は「不幸を分け合う」ことでしかなく、暦は忍(キスショット)を不幸にしただけだったという思いをおそらくゴールデンウィークの時点では持っていたはずだ。
2,人は勝手に助かるという思想
同様に、「助ける/助かる」というテーマにも同じような思想が繰り返しいわれている。忍野メメがよく口にする「僕が助けるんじゃない。君が勝手に助かるだけだ」という言葉にも代表されるように、人は自分で助かろうとして自ら行動を起こせば、助かるのだ。反対に助かろうとしなければ、どんなに周りが助けようとしていても助けられない。『化物語』のなかでブラック羽川に襲われた暦を忍が助けるのは、彼が「助けて・・・忍」と呼ぶからだ。
さらに直接的なのは、家が全焼し阿良々木家に居候することになった羽川に対して暦の母がいうセリフだ。
ここでの「逃げる」という言葉はおそらく「助かろうとする」ということと同義だろう。その証拠にその後羽川は、老倉に対して「幸せになろうとしない人を幸せにすることは誰にもできない」と告げている。それはおそらく『猫物語白』を経た羽川だからこそ言えた言葉だ。
この思想は、両親が警察官であることにも起因しているように思われる。警察官として助けるという行為には、「制度」的な含みがある。警察官は110番されるから助けに行くのだし、被害届が出ているから捜査する。暦の「助ける」は単なるおせっかいではなく、制度としての正義を守るための、助けを乞う声に応える機械的なものだ。そして春休み、キスショットを通じて彼は助けをこわれてない中で助けること、自己犠牲によって助けることの愚かさを学んでいる。助かろうとしていない人を助けても不幸にするだけで、自己犠牲の果ては結局人を食らう吸血鬼をのさばらせただけだった。
羽川はゴールデンウィーク時点で、幸せになろうと、助かろうとしていなかった。自分の不幸など大したことではないと思い、現状をよしとしていた。その中で暦と付き合う形で、暦に助けてもらうことは、彼女を幸せにする選択ではなかった。二人して不幸になるだけで、暦は羽川を不幸にして、羽川も暦を不幸にするだけだっただろう。春休みの経験を経ていなければそれでも自己犠牲的に不幸を分かち合うために告白したかもしれないけれど、あの時点で暦が考えた羽川が幸せになる方法は、羽川自身で幸せになろうとすることだった。そうすれば頭の良い彼女なら幸せになれるからだ。
もちろん、暦と忍の関係性が幸せなものになっていくことはその後事件を通して、それこそ斧乃木ちゃんから指摘されたとおり、努力によって変えられるのだけれど、暦はそれにまだ気がついていない。暦自身の恋心というエゴでキスショットと同様に羽川を不幸にしてしまうことを恐れたのではないだろうか。ないものを埋めるための関係性は人を幸せにはしない。己を含めた相手と自分の関係性を幸せなものにしようとしなければ幸せにはなれないのだ。その意味で不幸でいることは怠慢で、幸せになろうとしないのは卑怯だ。暦と付き合う戦場ヶ原は、両親の離婚という経験からそれを暦以上に理解している。
自分で勝手に助かった戦場ヶ原は、助かるために、幸せになるために努力することを知っている。そして、不幸な自分を助けてもらうために、幸せにしてもらうために、彼女は暦に告白したわけではないのだ。きっとそれは、ゴールデンウィーク時点の羽川と暦の関係性では、作り得ない関係性だっただろう。
3,終わりに:本当に「人は勝手に助かる」のか
結局、暦が羽川と付き合わなかったのは、助けを求めていない羽川に、羽川の求めているだろう家族を作るという名目で、自らが家族になる、というやり方が、キスショットとの関係性をなぞったものであり、そしてそれは暦にとって誰も幸せにしなかった最悪の”助け方”であったからなのだろう。
蛇足的に検討したいこととして、物語シリーズに通底する「人は勝手に助かる」という思想についてだ。言い換えれば「幸せになろうとしない人を幸せにはできない」という考え方とも言える。この思想から抜け落ちている観点としては、助かろうとしたのにも関わらず、周りからの助けを得られなかったがために助からなかった、という事例についてである。助かろうとすれば勝手に助かる、という表現は逆に言えば助かった人は助かろうとした人であり、助からなかった人は助かろうとしなかったのだ、ということである。ここで問わなければ行けない点は2つあり、1つはメメの言う通り、「助けてって言わなきゃ助けを求めたことにならないわけじゃない」、すなわち助かろうとしたの線引についてである。そして2つ目が前提として、助かろうとすれば助かるくらい周囲の助けは十分あるのか、という点である。
1つ目については、その言葉は明らかに羽川の言動について語っていた言葉出会ったにもかかわらず、その後「好きって言わなきゃ好きってことにならないわけでもないように。」と暦自身への言葉へと変わっており、これによりこのテーゼは背景と化しているが、羽川は本当に助けを求めていなかったのか、という問題である。自らが怪異になること、家庭の事情を打ち明けること、他人の家に居候になること、それらはすでにSOSではないのか? だとしたら暦は「何だってして」彼女を助けてあげても良かったのではないのか? そして羽川が春休みに阿良々木に差し出した救いの手は、そういう種類のものではなかったのか? 表面的な言葉による拒絶ではなく、声にならないSOSを見逃さずに助けることは、暦の持つ「制度的な」正しさではなし得ないということだろうか。
2つ目は助かろうとすれば助かるくらい周囲の助けは十分あるのか、という点である。高校生が主要な登場人物となるこの物語において、大人の影は異様に薄い。そして教師や行政はおろか、専門家として登場する大人たちも驚くほどに彼らを助けない。彼らが助かるか否かは、彼らと怪異の戦い、すなわち自分自身といかに向き合うかといった内容に矮小化され、例えば老倉のような明らかに物理的に助けが必要な事例に対しても、彼女が幸せになるためには彼女が幸せになろうと思うことが必要、という結論にしかならない。それは現代社会を見れば明らかに足りず、暦の行う「助け」が無力であるようにしか思われない。
ここからわかることは、暦は「助ける者」としてはいつだって無力であったということだ。だから『続終物語』では、心残りとしてこれまでのヒロインが登場する。それは彼自身が「助けられなかった」者たちであるからだ。一方で戦場ヶ原自分自身でまさしく「勝手に助かった」、暦がもう助ける必要のない人だ。だからこそ暦は羽川ではなく、戦場ヶ原を選んだのだろう。
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