今日のメモ20240428
問題児とされる彼に指摘されたことが幾つかあるが、その中で気になっている事の一つに「自他の区別が付いていない」と言われたことがある。
この言葉を目にして「まさにそれ!」と思った人はきっと私の事を深く観察しているのかと思う。
物事の視点と言うのは位置を変えると別の事が言えるようになる。視点を変えると自分の意見とは異なる他の人の意見に正しさが見付けられる。
だからこそ私は常に視点をコロコロ変えながら世界を観察するのが習慣になっているのだが、時に自分の本音としての視点を見ないようにしてしまっているのだと指摘されるとそのような事実もあるのだろう。
その状況に私が早く気付いて欲しい、そんな風に思ってくれている人がいるのであればとても歯痒い状況が続いているのだろうか。
時折、嘆きの声のようなものが聞こえてくることがある。誰がそれを発しているのかは推測が付いていて心の中で話をしているが、いつも一方的に反論されているように感じて辛いのではないかとも思う。相手が優し過ぎて言い返してくれていない、そんな感覚がある。
一度腹を割って話し合ってみれば何を感じてそこまで嘆いているのか(いや、嘆いてくれていると言った方がより正確だろうか)鈍感な私でもわかるのだが、それが叶わないのであれば自力で理解を深めていくしかない。
私は結構いい加減な奴である。
責任感が人を苦しめると言っておきながら前の職場では体調不良でも休んだことは無い。だって、選任してやっているような仕事を休んだら他の人が大変なのは分かっているからだ。それが時にしんどいことも分かっているからこそ他の人には無理をして欲しくない。
これは分かり易い例だが、言っている事とやっていることが違うなんてことはざらである。
自分が苦しいことは他の人にはやって欲しくなくて、だからこそ自分が逃げてしまう事に関しても許して欲しい。
都合の良い勝手な言い分でもある。一方で、人間関係と言うのはそういうモノだとも思っている。
だから我儘というのはあって然るべきだとも思う。
誰かに「お前の我儘を言ってくれ」と言われると困惑する。
結構、自分では我儘に振る舞っているつもりである。特に自分のことを棚に置いて語ってる際には我儘そのものだと感じている。
それを嫌がられながらも許して貰っているのだから、それは有難い話なのだ。でも他にも言いたいことがあるのだろうと、感じてやきもきしてくれる人が居るのは更に有難いことなのだ。
それで十分だと思う所もあって、満たされる部分もあって。周りの人は優しくて、色々と良くしてくれて。
ぶつかったりすることもあるけれど優しさは十分に感じられて。愛おしくも感じて。
だから、それ以上は貰い過ぎだと思う所もあって。
これ以上の喜びは自分にはふさわしくないと思ってしまう。
どうしてその制限をかけたのかは定かでは無い。
何か深い理由があるのか、それともこれこそが「自他の区別が付いていない」のか。
世界の嘆きのようなものに感化されて抱きしめて離れられないのか。
離れてしまったら残されたモノは寂しくはないのだろうか。あの時のように。
それとも死を意識した高校生の冬の時のように。
残された辛さを感じられないからこそ良かったのだと思ってくれるだろうか?
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