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「渦 妹背山婦女庭訓 魂結び」解説


豊竹呂太夫さんの解説が素晴らしく、何回も読み直してます。

特に、文楽の説明のところ。

文楽は生身の役者ではなく「木偶」が演じます。いわばただの木片を観て、お客さんは喜怒哀楽をそこに感じるわけです。文楽には「三位一体」という言葉があり、太夫・三味線・人形の三業がひとつになってストーリーに感情を込めていくわけですけれど、その単なる木偶に向けて、悲しい、オモロイ、悔しい、カッコええと思うのはお客さん自身の感情で、それも合わせての「四位一体」となるわけや、と僕は思てます。みんなが無表情なモノ(人形)に自分を投影する。自分の想像力によって喚起される〈私〉の物語に出会う。文楽の舞台では、毎日毎日この四位一体総がかりのエネルギーで物語が生まれ、消えていく。これが三百年以上続いてる。
渦 妹背山婦女庭訓 魂結び
解説
六代 豊竹呂太夫


なるほど、文楽にハマる理由はこれか、と。

表情が変わらない人形。

なんなら浄瑠璃の意味も全部わからなかったりするし…

見る側にとっては余白だらけです。

でも余白だらけだからこそ、客自身、感情が喚起できる。

特に、その人の中に物語がたくさん蓄積してたり、人生の中で激しい感情を体験した人ほど、投影しやすいような気がします。


普段、「情念」なんて無いような顔してみんな生きてますが、

現代だっていろんな不条理もあるし、情念、あるはずです。

でも自覚しないで生きてる。

あえて非日常な環境で、普段、蓋をしてる情念を呼び起こして、涙して、カタルシスを味わう。そして日常に戻ってく。

他の芸術でもそうですけど、技術や作品の意図を知識として消費してく鑑賞方法って、それだけだと面白味が無くなるし、「教養のための教養」になっちゃうわけで。

多分、芸だけを鑑賞してるのならここまでハマらないですね…

なんか、自分なりに文楽にハマる理由が腹落ちして、とってもスッキリしました。

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