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mandala

年始あたりから少し先の未来をイメージすることを意識していました。

そうしたらネイティヴ・インディアンは「7代先のことを考える」という言葉を思い出し、“私の7代前って何人居るの?”と思い計算したら256人!!大体200年位前だとしたら日本は江戸時代、ヨーロッパではフランス革命とか産業革命があった頃。

彼らは未来視でもできたのかしら?
出来る人もいたかもしれないけど、多分そういうことではないよね…

200年前の256人のご先祖様が生きていたときに、7代先の私のことを意識していたかどうかは分かりませんが、翌日の予定を立てる(決める)のも苦手な私には途方もないことで氣が遠くなりそうでしたが、ふと空を飛ぶ鷹のイメージが浮んで、

バードアイ…視座を高くということか、と。

そのときに描いていた曼荼羅

先日ふと256ってどこかで見た数字だなと思い、10代前位まで計算したものを一桁になるまで計算してみると見覚えのある数字が出てきました。
1、2、4、8、7(16)、5(32)、1(64)、2(128)、4(256)、8(512)、7(1024)、5(2048)… 
ロディンフラクタル!
そりゃあそうだ。遡れば細胞分裂と同じで倍数ずつ増えていくんだもん。

この図形と数字については書籍でも読んでいましたが、解説を追うのに精一杯で、それが云わんとしていることまで理解するには至っていなかったのですが、思い出して改めてこちらの動画をみたら震えた…!

人類の起源がどこまで遡れるのかは分かりませんが、天文学的な数の御先祖様がたしかに存在していたから、今ここに私という人間が存在できているわけで…そのひとつひとつのご縁が違っていたり、誰か1人でも欠けていたら私という人間はこの世に存在してないし、この世界も全く違うものだったかもしれない。

完璧な循環∞と△の中にいるんだ。
私もその一部なんだ。

個は全、全は個

誰かの言葉や教えの暗記ではなく、自分の感覚としてそのことが実感でき、ようやく少し言語化できる程度に理解できた氣がしました。


☆☆

“誰か”に都合よく改竄された歴史や概念を刷り込まれ、毒を盛られ、次々に起こされる感情を揺さぶる事柄に右に左に揺さぶられているうちに監視・管理社会まっしぐら…

ずっと昔からそんな世界に心底ウンザリしていて、

そんな困難な世界に子どもを生むなんてそんな酷なことできないよね…

若い頃から固くそう思っていました。

何でこんな大変なときに、また生まれて来ちゃったんだろ。。

はっきりと前生の記憶がある訳ではないけれど、何度も為す術もなく滅びゆく世界を眺めながら、ただひたすら早く己の生命が尽きることを待ち望んでいたような…そんな感覚が今の私の中にもずっと燻り続けていました。

ずっと見て見ぬふりしていましたが、他責思考ですよねコレ。このままでは先に進めるはずがない。

現時点で未婚・子なしの私はこの先の誰かの1/256になる可能性はありませんが、だからと言ってこの先の未来に対して無関係ではない。無関係でいようとすることは、ここまで繋いでくれたたくさんの生命、今を生きる生命、これから生まれてくる生命、そして自分自身の生命、その全ての存在に対して失礼なことだと氣がつきました。これ、私が一番嫌っていたやつだ…
ずっと昔から「生命を蔑ろにするな!!」と散々叫んでいましたが、この期に及んでまだこんな特大ブーメランを喰らうとは。。 

このことから目を背向けている限り、

私に何ができるだろう?
私は何をすべきだろう?

その答えにはたどり着けないし、自分もその“うんざりな世界”を創造する方にエネルギーを注いじゃってるよね。。

新月に描いた曼荼羅。
最近少しずつテーマが定まってきている氣がする。

私が向かいたいのはそっちじゃないっ!!ので、ちょいと軌道修正しよ。

2024.2.10(旧暦元旦)


☆☆☆

★オススメ&自分用メモ★

そういえば初めての海外一人旅でフランスに行ったのは2006年。きっかけはダ・ヴィンチコードでした。

「モナ・リザと一対一で向き合いたい」

特に好きだった訳ではなかったのに、何故か突然そう思ったのです。迷いに迷ってモナ・リザの元に辿り着いたのは閉館時間が迫る頃。誰もいない空間で2人きりで向き合う不思議な時間を過ごしました。

そして2008年の夏、『最後の晩餐』と『受胎告知』に出会いました。

『最後の晩餐』は事前予約が必要でしたが、その前の旅程に不確定要素があったために予約をしておらず、当日の朝にチケットオフィスに出向きました。前日に話したミラノ人やガイドブックの書き込みでもほぼ不可能とされていた方法で、実際に一度は「3週間後まで空きはない」と言われて帰りかけていましたが、たまたま隣のカウンターにその日のチケットを払い戻しに来た方がいて無事にゲットすることができました(*^^*)
「有名な絵画だし、せっかく来たのだから観れたら観よう」位の軽〜いノリだったのですが、対面したときに感じたのは“神々しい”という言葉以外が見当たらないくらいの衝撃と靈の震えでした。

その数日後に出会ったのが『受胎告知』。元々はベアート・アンジェリコの同じタイトルの作品を目的にしていたのですが、ウフッツィ美術館をフラフラしていたときに不意に呼びかけられたような感覚があり、振り向いたらそこにあったという…。頭を殴られたような強烈なインパクトと同時に不思議な静謐さで、音が止み、時が止まったように感じた記憶がありました。

ダ・ヴィンチの絵画だけが他とは明らかに感じ方が違っていたことを不思議に思っていましたが、理由が分からないまま10年以上が経ち、出会ったのがこちらのブログでした。

数学とか幾何学とか物理とか、聞いただけでアレルギー反応が出そうな位苦手で、自分には一生御縁はないと思っていた分野。
前提となる知識がないまま「知りたい」という氣持ちだけで読み始めたのでなかなか困難ではありましたが、読み返す度に新たな氣づきがあり、点だったものが線になっていく感覚が楽しくもありました(*^^*)

嘘が重なりすぎて何が本当なのか分からなくなっているこの世界(私自身も含む)。溢れる情報の真偽をいちいち精査していては、本当に大切なものにはいつまで経っても辿り着けないともどかしく感じていました。現在から過去を辿るのではなく、いっそ逆…根源(元)から辿る方がシンプルで分かりやすそうだとは思ってはいましたが、ずっとその方法が分からず長らく“うんざりな世界”に引き籠もっていました。

でも実は“見方”を知らないだけで、賢者と呼ばれるたくさんの先人たちがそのヒントを色々なカタチで残してくれていて、今も時を超えて私たちがその智慧の恩恵を受けながら生かされていることに氣づきました。

それってすごい愛じゃないか!!

賢者さんたちも自分たちが遺したものに、後世を生きる子孫たちが氣づいてくれたら嬉しいはず!!たぶん…(知らんけど)

賢者どころか限りなく寓者な私ですが、私は私なりの方法で、そのうちの小さなひと欠片だけでも伝えていきたいと思います!

勉強しなきゃね。