見出し画像

ヒトデを海に投げ込む

ジョアンナ・メイシーの読書会に混ぜてもらっている。その読書会は「カミング・バック・トゥ・ライフ」の本をはしから全部音読して、載っているワークはその場で、みんなで試してみながら進んでいる。ゆったりニコニコと進んでいく。

p395の「ヒトデの物語」のところをやったとき、「こういう感じのこと、何回も言われて、なんとも言えない気分を味わったよなぁ」という思いがムクッとわきだした。そして、「ああ、こういうふうに言い返せばいいのか」と、えらく納得したような心強いような、そんな思いを抱いた。

この部分は子どもや10代の若者たちとのワークの紹介で、初めに短い「ヒトデの物語」が物語られる。このお話は、岸に打ち上げられたヒトデを拾って海に返している若者に、世の中のことをよく知った男が「この先、ずっと海岸が続いているというのに、そんなことしたところで、大して意味がない」と話しかけ、若者はヒトデを手にして海に投げ返しながら「あのヒトデにとっては意味があるのさ」と言うというような内容。

このお話を聞いた後、みんなとのセッションに参加しながら頭の中で、物語に登場する若者の、黙々と砂浜からヒトデを拾って海に投げ込むダンスのようなスゥイングと、空飛ぶヒトデの放物線のイメージがずっと繰り返し現れていた。
そのスゥイングと、「そんなことに意味ないじゃん」という舌の奥にじわっと苦いものが湧き出るような言葉と、「意味あるよ、少なくともヒトデには」という、柔軟で力強い反論が一緒になって、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃと頭の中がかき混ざる。

不登校のテーマに関わっていたときも、子育てやうつ的なテーマに関わってきたときも、グリーフサポートに関わってきたときも、環境的な問題に関わっているときにも「そんなことやって何になる。考えるべき問題はとてつもなく大きいのに」とか「不登校? 非行の問題はどうなってるの? そっちの方が問題じゃない?」とか、「悲しみに目を向けるなんて、辛気臭い。何か楽しいことをやったほうがハッピーなんじゃない?」とか、否定の言葉をいろいろ、いろいろ聞かされてきた。

「そうねぇ」「そうかもねぇ」と受け流しながら、ときに「あんまり大した意味ないかもなぁ」とか「まあ、他にもっとすごいことしている人がいるし、自分がやらなくてもいいかもなぁ」とか、どんよりしたことを思い出したのかもしれない。

けど、どこまでも続く海岸線とヒトデとこの繰り返されるスウィングのイメージは強烈。

そうか、ダンスのように軽いステップで次々とヒトデを拾い上げ、海に投げ返せばいいのか。自分にできることを淡々と。海に戻るヒトデには何らかの影響があるよね、と思いながら。(果たしてヒトデは海に戻りたがっているのかどうか、ということについてはちょっとおいておくとして)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?