レンズ越しの月
夜風に誘われるようにして外へ出た。
周辺の民家は寝静まっており、世界が自分だけになったかのような錯覚に浸る。
(気持ちがいい、夢の中みたいだ)
そんな心地よさも、時折通るタクシーに現実へと引き戻される。
荒くガスを吐き散らしていく後ろ姿から、空へと視線を移す。
0.1ミリのレンズが溺れた夜は、ひどく色褪せてみえる。
ため息をついて、また歩きだした。
(いいね、夜。朝日が昇れば消えられるんでしょう。私もこの夜に溶けてしまいたいよ。)
未練がましく液晶画面を覗くが
誰からも連絡は来ていない。
「ばっかみたい…。」
大袈裟に呟いた言葉だけが、夜に溶けるように消え、辺りはまた静寂に包まれた。
妬ましいほど綺麗な月。
彼と初めて会ったのも綺麗な月の出ている日だった。
何もかも手に入れたかのような、そんな満ち足りた日だった。
「三日月みたいな子だね」
「それってもう少し足りないってこと?」
その言葉を聞いた彼の目こそ、三日月の様だった。
分厚いレンズを外して、髪を伸ばして。
彼のお眼鏡に叶うようにと努力をした。
愛おしそうに月を見上げる目が
いつかその目が、自分に向けられると信じていたから。
『私では貴方の満月にはなれないみたいです。』
わざと嫌な言葉を選んだのは
待って、と言ってくれることを、
追いかけてくれることを期待したから。
最寄り駅を通りすぎて、惨めな妄想が広がる。あの駅から、走って迎えに来てくれないだろうか。悪かったと、抱きとめてはくれないだろうか。
メッセージを読んだ記しがないところで、答えは分かっているのに。
風に乗ってあの人の匂いがした。思わず振り返る。
そこには、足取りの覚束ない見知らぬ男性が歩いていた。
ふふっ、と笑いが込み上げる。
香りさえまだ忘れられていないとは、諦めの悪い。
男性がフラフラと電柱に寄りかかった所を見届け、また歩きだした。
ふと考えがよぎる。
今の人がもしも彼だったら。もしこんな風に、彼が夜道をフラフラとだらし無く歩いていたら、私はどう思うだろうか。
…例えばこの状況では、あの人がどんな行いをしてきたどういう性格の人なのか、私にはわからない。フラフラと歩いている人、それ以上でもそれ以下でもない。
私が見ていた彼の部分はどこだろう。甘い言葉に唆され、浮かれて、舞い上がっていた…?
尋ねるように月を見上げると、先程よりも綺麗に見える気がした。
目の中でゴロゴロとレンズが動く。
曇ったレンズなんて使う意味はない、外してしまおうか。と立ち止まった。
「お前、今、俺を笑ったのか」
「ーーぇ、ねぇ起きて、大丈夫?」
「…え?」
「おはよう。随分うなされてたけど、大丈夫?」
見覚えのあるベッド。
「怖い夢でも見たの?」
「…うん。貴方と別れる夢。」
「はは、なにそれ。」
目頭をクシャッとして笑う。いつもの彼だ。
「せっかく付き合い始めたのに?」
細めた目は、もう三日月の形はしていない。
胸板に顔を埋めると彼の匂いがする。
そっか、そうだった。やっと私は彼と…。
この時間がずっと続きますようにと、そっと目を閉じた。
―――――――昨日未明、見知らぬ人へ暴行行為を働いたとして42歳の会社員が逮捕されました。逮捕された会社員は「相手から絡んできた」などと容疑を否認したようですが、防犯カメラには暴行を働いた当時の様子が残っており、被害者は意識不明の重体で病院に搬送され――――――――
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