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わたしもあなたも狂ってる
小説『ベロニカは死ぬことにした』のワンシーンから
睡眠薬で自殺を図って失敗し、精神病院へ入れられたベロニカはその中でゼドカという患者と“狂気”についての会話を交わす。
「どうしてか説明できないわ。ただ知ってるだけよ。わたしが一番最初に聞いた質問を覚えてる?」
「ええ、狂ってるってことがどういうことか分かるかって」
「そうよ。今度は、もう物語ではぐらかさないわ。狂気とはね、自分の考えを伝える力がないことよ。まるで外国にいて、周りで起こってることは全て見えるし、理解もできるのに、みんなが話してる言葉が分からないから、知りたいことを説明することもできず、助けを乞うこともできないようなものよ」
「わたしたちはみんなそう感じてるわ」
「だからわたしたちはみんな、なんらかのかたちで、狂ってるのよ」
パウロ・コエーリョ『ベロニカは死ぬことにした』(江口研一=訳、角川文庫、令和元年12月15日)
みんななんらかのかたちで狂ってるのに
異常と普通に線引きをして
その終わりのない差異のゲームに疲れ果てちゃう
「人は退屈を免れるために普通の事を複雑にする。普通さを複雑にすることでしか差別化を図れない。そこでパウロは、狂気とは何かを知るために、まず普通とは何かを問い直した。
・・・そして彼は“普通の人”の、普通さに合わせようとする時の微妙なズレや矛盾の積み重なりが、狂気へと繋がるという結果を導き出した」(文庫 訳者あとがきより)
ほんとうに、その通りだ
大学で習ったラカン派精神分析を思い出す
ラカンの理論だと
人は幼児期に本当の自分ではない(左右反転した)鏡の中の姿(鏡像・虚像)を自分と誤認することによって、「自分のイメージ」を作り上げるのだから
訳者の言うことからすると
人はその成り立ちからして、はじめから「微妙なズレや矛盾」を持っていて、狂気を孕んでいる
あなたは狂ってる
あの人はおかしい
それを言っているあなた(私)は?
その線引きはなにを後ろ盾にしているんだろうか
私はどうしても、「本当のわたし」とか
「まともな人間」とかを考えてそれに縛られてしまう
けど、それを不変で確実に存在するものとして追い求めることにはじめから無理があったんだろうか