投資家が変人と呼ばれる所以
投資家やトレーダーはよく変人だと思われがちです。『どこかでバリバリ勤めたり事業を立ち上げたりすることが立派である。』という雰囲気はやはり存在するといえます。
投資家って本質的に何かに寄生しているんですよ。寄生してなきゃ生きていけない。そしてその寄生先は必然的に労働者や企業体になってくる。
例えば株式の配当は企業の利潤、もっといえば人々の労働力から生まれているといえます。
だから株を買うことは『時間』を買うことである、というのは実はよく言われることなんです。
それによりわかりやすい言葉として『マクロかミクロか』という二択があります。
ミクロ経済学とマクロ経済学の違い
大学などで経済学を学んだ方ならわかるかと思いますが、『マクロはミクロの上に立つ』というのはよく聞く言葉ですよね。ミクロの寄せ集めがマクロになる。
でもこれ間違っちゃダメなのが、ミクロの議論をマクロに適応、もしくはマクロの議論をミクロへ適応出来るとは言っていないという点です。つまりミクロ=マクロじゃない。
だからミクロ経済学で動いていく労働者・事業者からするとマクロ経済学で動く投資家の言ってることはよくわからないというわけです。(もちろん逆も然りです)
繰り返しになりますが、投資家は労働者・事業者の寄せ集めを分析しなければならない。だから労働者・事業者自身からするとよくわからないということになる。
だってミクロ経済学って予算制約とか生産曲線とか、投資家からすると全く興味ないことを永遠とやりますからね。でも経営者や労働者家計からするとこっちの方が大事ですよね。帳簿はミクロな世界ですから。
一方、マクロ経済学はインフレ率とか失業率、マネーサプライとかもろに金融市場に影響してくることだけをやります。だから投資家は必然的にマクロ経済学に惹かれる。でも経営者や労働者からすると『抽象的な話で誤魔化すな』となってしまう。
『投資家は変人だ。』という主張は割とここのマクロとミクロの違いに起因している気がします。
つまり、
◉ビジネスやお勤め→みんなに合わせることが正義【需要をとらなければならない】(需要を作るタイプの天才は除きます)
◉投資家→みんなの逆を行くことが正義【供給よりの立場をとらなければならない】
というような構図になっているわけです。
資本主義分析から見るミクロとマクロ
資本主義は数式で成り立っている、とはよく言われます。でも本当にそうでしょうか。
ここで僕が考えたいのが資本主義を存在論的に見ることです。(存在論とは、それがなぜそこにあるのかを徹底的な論理性で詰めることです)
まず、資本主義とは人とカネで成り立っています。商品や国や交換も本質的にはこの2つで成り立っている。
では、金を持ったある人を想像したとして、その人は自分の好き嫌いでものを買うか、それとも値段に基づいてものを買うか、どっちが正解なんでしょうか?
すなわち人によるかカネによるか。
答えはどっちもですよね。人は好き嫌いで判断しながら値段も見ています。(値段というのは使用価値と交換価値(=だいたいこれくらい、という貨幣に制約される価値、投入されている資本量)の2つの部分で決まっています)
ただしこの使用価値と交換価値が均衡しているか、と言われればそうじゃない。
価値に対して使用価値が高かったり、使用価値に対して価値が高かったりする。そしてこの基準は一人ひとりの個人的な消費決定・投資決定の寄せ集めによって成り立っている。(だから極端にこの比率が偏ることもあるわけです。それがバブルや恐慌として現れてくる)
交換価値に関しても、つまり貨幣に制約されている価値も、本質的にはどのくらいの資本が投入されているか、ということに還元されます。
そして資本の投入量を決めているのも、究極的に微分すると個人になってくる。もちろん大体これくらいという基準は存在しますが。
つまり資本主義とは、数学が適応できないミクロな個人の認識によって成り立っていると。しかしそれを寄せ集めていくと何故か規則正しい動きが生まれてくる。
そして大体これくらいという基準が生まれて、数学が適応出来るようになっていく。こんなモデルになっているわけです。(そう考えると資本主義って本当に上手くできてる気がしますよね)
だからこそ個人の頭の中だけでミクロからマクロへ繋げていくことはできない。必ず人と人の関係がなければ(フッサールはこれを間主観性と表現しています)、マクロ経済学は生まれないようになっているわけですね。
人と人の関係を拒絶しがちな投資家からすると、やはり変人だと思われることも受け入れなければならないかもしれません。
でも僕は、もちろんここは個人的意見ですけど、世の中を知的にするのはマクロな客観性をもつ投資家だと確信しています。(ただ立派なのは労働者や起業家だと思いますけどね)
それにこの基準もよくない。マクロな目を持つ投資家は労働者や起業家的な行動を起こし、その客観性を世の中に持ち込まなければならないし、一方で労働者や起業家はその主観的性格を投資家に持ってくるとともに、客観性を獲得するためにもっと金融市場に参加しなければならない。
やはり、この金融市場と実体経済の分断を以下にして取り除くかが、今後の資本主義の課題として重要になってくる気がします。
ということで最後は個人的な話になってしまいましたが、今回はここまで。
ありがとうございました。
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