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喜んで「不自由」になる

先日、ある作家さんの子育てセミナーに参加した。

そこで聞いたある言葉が非常に印象に残っている。

現段階では、
その言葉に賛同も反対も感じていないが、
なぜかその言葉が強烈に私の脳にこびりついているのだ。

その言葉は

人間は「不自由になることに幸せを感じる」、
「絆」が深まることに幸せを感じる生き物なんだ

ということ。

絆とは、もともと馬などの動物をつなぎとめておく綱のことである。

つまり

不自由になる
これこそが
絆なのだ。

と言っていた。—————————————————-
※注 
この記事での「不自由」の定義は
家族構成やライフスタイルの変化、組織内などにおいて
ある程度の制限化に置かれた状態
に限定して書いています。
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言われてみればそうかもしれないと思うところはある。

たとえば、合唱や合奏。

一人で好きに自由に歌うのも良いが、
わざわざ自由を制限して
みんなでひとつの曲を歌い上げる。
何度も練習を重ね、
全体に合わせてパートごとに調整し歌う。

全体に合わせることは「不自由」なのだ。
だけど、
その不自由が与えられれば与えられるほど
心がひとつの場所に重なっていく。

そんなふうに誰かと心が重なった時、

しあわせを感じたことはないでしょうか?

ちょっと怖い話にも感じるけど
団体スポーツや
組織で結果を出すという点においては納得する側面なのかもしれません。


話を人生や子育てに戻します。

親戚含め10人家族で育ってきた私。
家族でさえ
考えが一人一人(時には全然)違い、
おなかが空いても
みんなと時間を合わせて食べ
お風呂もテレビも順番を待ったり
誰かと暮らす「不自由さ」は知っていたはず。

その後、
一人暮らしで自由を謳歌したにも関わらず
私は結婚を選んだ。

子供を産み育てることだって、
「自由の制限」を感じるだろうことは
知っていてた。
だけど子供を育てたいと願ったのだ。

それは、
無意識に
「誰かとともに生きる喜びを知っているから」

ではないかと思った。

ではなぜ、
一度自分で選択した「不自由=幸せ」をネガティブに感じてしまう時があるのだろうか。


パッと浮かんだ理由は3つ。

①不自由さが想定外だったから
  自分のものさしでは度を超える不自由さだった。もしくは想定した不自由と種類が違ったからなど。

②不自由さをシェアできてないから
 「自分ばかり」の思考ですね。

③不自由を自分で選んだという自覚が薄れたから
  気がつけば、自分で人生を選択して生きている、ということを忘れてしまうものですよね。

そんなことを考えながらお風呂で頭を洗っていた物思いなアラサーワーママなんですが(変ですね)
そんな私に

1番の理由はコレだ!
というひらめきが降りてきました。


それは、

「不自由=幸せ」なんて知らなかったから


そう、私は不自由になるということが
「幸せ」につながっているなんていう
価値観を持ち合わせていなかったんです。


そんなの全然知らなかった。
むしろ真逆だと思っていた。

あとから気づくことはあっても
事前に、および渦中にいる時は
不自由=幸せ
なんて微塵も考えられないのです。

だから、
自由を確保したいとか
自由な人たちへの嫉妬とか
そんなネガティブな方向へと思いが巡り始めてしまう。

正直、私はアスリートの妻であった時、
とても不自由だと感じていた。
義理の実家も含め、家族のなかで競技にまつわる諸々の最優先や
週末も365日ほぼワンオペな育児が7年続いた。
夫の活躍をもって相殺される部分もあるけど、
やっぱり日常的にはいろいろ不自由だと不満があった。

そんな時期も、終わりを迎え、
今思えば、もっともっと楽しんでおけばよかったなと思う。不自由こそ、幸せだ。
そんな考えも知っていたならば、もっと
あの「不自由な時期」も楽しめたのではないか。

誰の人生も波がある。
自由を追求していても、
不意に「不自由」が落っこちてくることはあるのだ。

私はまだ子供が小さく、
一人の女性としての、自由は謳歌できていないけれど、

まずは今ある不自由を、存分に謳歌し、
楽しもうと思う。

そんなことをこの子育てセミナーで感じた。

今日の気づきが、明日の私を1ミリでも成長させてくれますように。







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