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光を飼う

 ビルの前の水溜りがあるのを見つけた。薄いゼリーのような、どこか柔らかさを感じる水面。映った朝の光があまりにも綺麗で、わたしはそれを家に連れて帰りたいと思った。考える時間はなく、ビルに入っているお惣菜屋のアルバイトが終わってもまだ光がそこにいたら連れて帰ろうとだけ決め従業員入口に向かった。

 お昼休みにどうしても気になり、わざわざ制服から着替えて水溜りを見に行くと光はまだそこにあった。従業員割引で買ったおかかおにぎりとカニカマ天を頬張りながら、誰にも気に留められることのない水溜りと光を眺めた。光と烏龍茶はよく合うと知った。

 ふくらはぎをパンパンにして夕方、急いでビルの前に向かうも既に水溜りはなくなっていた。諦めて帰ろうとすると出入り口のドアの横、ちょうど日陰になった場所に小さな水溜りが残っており光はそこに移動していた。名前を呼ぼうとしたが名前なんて決めてなくて、言葉を発しかけた口内で頬の内側の肉を噛んだ。顔をしかめ、これはなんて部位だろうと考えてホゾだ、と思った。わたしは光にホゾと名付けた。

 しゃがみ込み両手でその生ぬるい水を掬う。光は、いやホゾは、息を吹きかけると嬉しそうに揺れた。こぼれないよう慎重に自宅に向かった。途中、民家の軒先に陶器がいくつも並んでいるのを見つけた。四角く切った段ボール片には『ご自由にお待ちください』と書かれていた。わたしはそれらを眺め、一番似合いそうな黒い器に水とホゾを移した。ホゾは緊張からか動かなくなってしまったが、歩き始めるとやがてご機嫌に小さく踊り始めた。

 黒い瀬戸物は出窓に置いた。部屋を選ぶ際は気にもしなかった場所だったけど、ここに住むことにして良かったと初めて思えた。わたしはそこで光を飼うことにした。色々試してみたが餌は必要ないようだった。一度たくさん光を与えようと出窓のカーテンを全開にしてみたところ、外からの光と混ざり合いホゾが消えそうになったのでカーテンは閉めるようになった。ホゾは、少し変わったやつなのかもしれないと思った。

 わたしにはひとつ悩みがあった。惣菜屋の店長からたびたび食事に誘われていたのだ。わたしは仕事ができない方ではないと思っているが、そのことで他の従業員から店長のお気に入りみたいな目で見られていたしそれにかこつけて更に店長が「相談に乗るぞ」なんて言ってくるのだ。

 わたしが断っても逆上することはなかったが、そっかあ、と気にしていないフリをして傷ついる。それがわざとなのかどうかは分からないが、わたしはそのたび罪悪感にチクリとやられる。そんなことをホゾに愚痴った。ホゾは、そんなことは些細な問題だよ、とでもいうようにニコニコと笑っていた。だからホゾの真ん中あたりを指で突いてやったら、からかうように分裂して、小さくなってそのみんなで笑った。わたしは腹が立って瀬戸物の上に小鍋の蓋を乗せた。

 その次の日だ。わたしは出勤を押すと同時にホゾの上の蓋のことを思い出した。朝起きたら蓋を開けてやろうと思っていたのだ。血の気が引いて、蓋の中のホゾのことを思うとお腹のあたりが苦しくなった。その日の仕事は散々で、珍しくわたしに聞こえるように悪口が飛び交った。店長は休みで、別にそうして欲しかったわけじゃなかったはずなのに庇ってくれる人もいなくて、逃げ出すようにして退勤した。家までの道を自転車で飛ばしていると、ホゾを入れている瀬戸物を拾った民家が見えた。もう家の前には何もなくて、それが余計に不安を煽った。

 息を切らしながら家の前につくと、四部屋しかない小さなアパートの前に店長が立っていた。お休みのはずなのにな。このアパートに知り合いがいたのかな。こんなところで会うなんて偶然だな。そんなことを思い浮かべたあとそれら全てを破棄し、諦めみたいな感情だけが残った。店長の顔は喫煙室の壁みたいなのっぺりとした暗いクリーム色で、わたしに気がつくと何故か安心したように微笑んで手を伸ばしてきた。悲鳴をあげる気力もなく、これで死ぬのかななんて考えて、なんでか笑ってしまった。あ、と思い出して出窓を見た。そしたらホゾがいて、開いてない窓から飛び出してきて、四つ脚の獣の姿になって、大きな口を開け店長をべろりと舐めたのだ。

 その話をわたしが警察にすることはなかった。店長は顔色が悪く、わたしを見つけると倒れてしまったこと。どうしてわたしの家の前にいたのかはわからないこと。それだけを伝えて、冷たいのかもしれないけれどこの事件とは無関係であることを丁寧に主張した。わたしはそのままお惣菜屋を辞めた。なにを噂されるかを考えたら辞めるしかなかった。ホゾはわたしが長い時間家にいることが嬉しいらしく、出窓の瀬戸物のなかからわたしを見かけては小躍りした。不思議なことに、ホゾの体は大きくなっていた。

 次の職場は居酒屋だった。すぐに働けそうなことと時給がいいこと、あとは前の職場から離れた場所にあることが決め手だった。先輩たちはフレンドリーな人が多く、仕事も親切に教えてくれた。やがてわたしはひとりの先輩と特に仲良くなった。バイトリーダーということもあってなのか新人のわたしにとても良くしてくれた。変なお客さんに絡まれたときは自然に接客を代わってくれたし、グラスを割ったときも「みんな一度はやるんだよね」なんて笑いながら片付けを手伝ってくれた。わたしは、その人の親切が自分だけに向けられるならいいのにと願うようになっていった。

 月末業務ですっかり帰りが遅くなった日のことだ。入ったばかりなのに悪かったねと言い、気を遣ってかその人がわたしを家まで送ると言ってくれた。嬉しかった。だけどそれ以上に不安があった。わたしの家の出窓にはホゾがいる。わたしはその申し出を丁重に断った。本当の理由は話せなかった。はじめてホゾのことを疎ましく思った自分に気が付いた。同じような申し出はもうなかった。その後も、その人が変わらず接してくれたことが救いだった。

 またある日、母から電話があった。勤務時間になんだよと思いながら無視していたが何度もかかってくるので苛立ちながら電話に出ると、祖母が危篤とのことだった。社員の人に事情を話し、距離的にはそんなに遠くないので初めて一人でタクシーに乗った。信号で止まるたび気持ちばかりが焦った。病室に着いたときには見たことのある親戚が何人もいて、わたしの方をちらと見て小さく会釈した。どうしてか、あの世から祖母を迎えにきた存在に見えた。ベッドのすぐそばにいた母が、病室の外にわたしを出し祖母の現状を話してくれた。今夜が峠だろうという言葉を、ドラマ以外で初めて聞いた。

 そのときだった。母の言葉に引き寄せられたみたいに薄暗い病院の廊下の奥が光った。母は気が付いていないようで、わたしだけがそこを意識していた。光はサーチライトのようにわたしの足元まで這い寄ってくると、動けないわたしの横を通り過ぎて病室に入っていった。体が動き、病室を覗いたらちょうど獣の姿になったホゾの舌が祖母を舐めているところだった。帰宅すると、ホゾは何事もなかったかのように出窓の瀬戸物のなかにいた。わたしが近づくといつものように、また少し大きくなった体で嬉しそうに踊った。わたしはホゾを無視するようになった。

 それからも、ホゾはたびたび大きくなっていった。わたしが留守の間にどこかに行っていたのだと思う。わたしはその理由を考えないようにしていた。ホゾの体はとっくに瀬戸物からはみ出し、わたしの部屋のなかをチラチラと移動するようになった。ホゾは変わらずわたしが帰宅すると嬉しそうにしたが、わたしはホゾになんの言葉もかけなかった。雨が続いたあとの晴れた日、わたしが窓を開けるともう部屋に入りきらなくなったホゾはそこから出ていった。

 やがて、わたしは居酒屋の先輩と交際を経て結婚することになった。皮肉にも飲み会で酔っ払ったわたしがホゾのことを、そしてあの日の帰りのことを話したのがきっかけで親しくなった。わたしの大事な人はわたしの話を笑わなかった。それなら仕方ないねと言ってくれた。ついでに、ホゾっていうのはお臍のことだよと教えてくれた。この人が、わたしの新しい光となった。

 わたしは歳をとるにつれホゾのことを忘れていった。しばらくは、前の家のものと似た出窓だったり雨上がりに残った水溜りを見るとホゾのことを思い出していた。だけど長い年月を重ねていくうちにあの奇妙な存在のことは子供の頃の、夢が現実か曖昧な記憶みたいになっていった。わたしがホゾのことをしっかりと思い出したのは、それから六十年以上経ってからだった。

 わたし自身はそれが怖いということはなかった。痛かったり苦しかったら嫌だなという気持ちはあったが、そういったものは薬で溶けいたのかわたしはただ待つだけだった。わたしが悲しいのは自分のことでなく、自分の大切な人が悲しい顔をすることだけだった。それを伝えたら、大切な人は練習するねといって微笑んだ。好きだったな。そう思った。ホゾが帰ってきたのはその日の夜だった。

 足音が聞こえた気がした。わたしにはすぐにそれが誰のものかわかった。わたしを恨んでるのかもな、そう思った。だけど、病室の扉を静かに開け覗かせた顔は六十年前に見たものと同じだった。私が驚いて笑うと、光は嬉しそうにゆらゆらと笑った。病室は大きくなったホゾで溢れていた。

 ホゾは身を縮めてわたしに顔を近付けた。わたしが腕を伸ばすとホゾも少しだけ顎を差し出した。わたしの手は空を切り、ホゾが大きく口を開けた。いつか見た大きな舌があった。呼応するように私の体が青く光った。その瞬間、ようやくわたしは理解した。ホゾは人を舐めて殺していたわけではなかったのだ。

「ホゾ」

 わたしは嬉しくなり、最期にもう一度だけその美しい光の名前を呼んだ。


こちらの作品は、第二回かぐやコンテストSF選外佳作の作品となります。第一回の同コンテスト選外佳作「ネコと和解せよ」、「知る人」のリンクは以下の通りです。

伊藤なむあひ「ネコと和解せよ」

伊藤なむあひ「知る人」

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